位置によって異なる役割

ここ数日の発信内容は、あくまでも「認識の範囲内」のことだから書けるのであって、”そういう事を意識的にやる”という範囲でできるものと、やっぱり「結果的にシンクロするよね…」という人側の言葉・状態で言ったら確実に”無意識”という、全く自覚もせずという状態が殆どである事。

つまり、重なったのは”偶然”で、その偶然も頻度が上がり、殆どよく重なるという状態になってくるとそれは「必然だよね」という解釈に替わり。そこから私は、”偶然も必然も同じ”という表現をしている。

偶然というごく稀な出来事も、数多く発生し”いや実はそんな事ばかりだろう?”という所までくれば、それはひっくり返り”そうなる事は必然”という見方に替わる。稀な事なんかじゃないから。


そしてその流れを経て、結果側から言葉を付けた説明をしていくと、段々人の意識上で理解しやすい、解釈の出来る範囲に入って行く…、そこで目に付くのがこの段階になるから、「こうすれば良い」という分かりやすい部分だけの取り上げになる。

それが世の中に多く流れ出る部分。

仕方ないと言えば仕方なく、理解できない状態では、いくら世にあっても”ない”と同様の存在となり、目のつく部分だけに自ずとボリュームは集まり、更にそれが流れを作る。

そんな風に私には見えている。

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無意識で行っている事がなぜ、外側とシンクロするのかは、詳細には分からないからこれはもう本当に外側の大枠ぐらいの想像でしかないけども、説明できるシンクロの表現が”認識内”というならば、これは、人の認識を外れた(部分の)行いそのものの”振動”だと思っている。

そこには恐らく必ず「感情」というエネルギーが絡んでいると思っていて、その感情によるエネルギーは、雰囲気の軽いフワフワしたものでは、この世界とのシンクロは難しく(これは完全なイメージ)、深い所のやはり闇とか怒り、ドロドロ系のものは「大きく合う」という様に感じている。

軽いものは、この世界の現実側を動かすにはやはり軽すぎて、一致するものはライトなもの小さな事などがそれに当たると思うのだけど、数少なくも、深いものはとても大きくなり、その時は衝撃も強いという様に感じている。


そしてこの感想は、例えば「個人から発するという事は、まずないのではないか」という風に感じていて、それこそ、外側に、まだ特に何も現れている訳じゃないソレを、無自覚に(無意識で)拾う、つまりそれと合ってしまう状態が、人間側に発生することにより、タイミングが”合う”という状態になるのではないかと感じている。

そこから考えると、結局自覚上の意識では”分からない”所から、ただ外の世界と合うというそれがある、という引き合いのみがあって、そこに人のどうのこうのは関係ない状態になっている。この時の人は完全な道具でしかなく、その働きを通して、深い振動が表に出るきっかけの一部となる様に思う。

この考え方をした時、人という存在は肉体や意思・思考などは自分のものでなく、一種の操られ状態でもありながら、それが大きな世界の一部としての働きなんだろうと、「人」という在り方から切り離された一体の在り方となる。

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ワン達の散歩から観ていたこと。

もうそこまで、運動によってそこまで押し出されているものは、わざわざ匂いを嗅ぎまくらなくても自然とウンチは飛び出してくる。それは良いとして。

外であまりウンチをしない子が、たまに道路脇の草を長いことスンスンし始め、時に足を止めたりまた場所を変えてスンスンして歩く姿を見て「出るんだね」と思う。後にクルクルっと回ってしっかりと体勢に入る。

この時匂いを嗅ぐのは、”出す”ための刺激を入れている動作。

外の刺激を自分の中に取り込んで、自分の中のモノをしっかり出していく。そういう一連をそこに感じるのだけど、同時に湧いてくるものがある。


人は、自分の中にあるものを、自らの力だけで生み出すことは意外と出来ず、だから外からの刺激を使って、それによって自分の中から生み出す。身体がよく動く状態があれば、それは自然に出来るのかもしれないけれど、衰えや筋力不足など機能が少し不足する状態がある事は珍しくないのだと思う。

それを助ける様々な”刺激”が外にはあって、それを自然と利用する。この自分の中側で”何かを感じている”のは分かっているのだから、”それをするには”という事も、自然な流れで行いを選択することができる。


ウンチの話で書いたけども、頭にあるのは、「言葉」という発信のことで、私たちは言葉を選ぶし、状況によって言わないし、言えない。

全てを言わないという選択ができるのも、人の能力であるけども、言わなくしてしまうという閉じたものでなく、自らの意思によって「言わない」を選んだという自覚のあるなしは、とても大切だと思っている。

世の中に対して”自分”という存在は、圧倒的大多数の中で「ひとり」しかおらず、どんな時も守ってあげたい。

自分という人は一人でも、その在り方を貫く人は結構いるので、そういう仲間は世界にはいるという事実を知ることで、”ひとり”で進んで行くのだと思っている。


フワつくイメージも持つ「言葉」という存在。

良いことはいくらでも言える上っ面、だけど言葉は実際に世界を導く。

一つ感じたのは、言葉は人の動作をけん引する力を持っているけども、実世界では”手入れ”の動作が間違いなく入る。言葉のけん引は障害・障壁という困難を見ていないから。

動作部分に当たる現実世界では、その様々を取り除く行いなど、言葉の世界ではなかったプラスされるものの精査が必要なのだと思う。要らぬものは取り除き、予想外の良きものはそのまま残す調整…。

言葉と現実という別次元の空間・世界の擦り合わせをしているのが、人の営みであるように思う。

内では言葉は終わり、外では言葉は始まり。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!