身体に近づく

⦅そうか…⦆

”普通”と思っている、何もない状態の普段は、本当に”何もない”のかもしれないけれど、何か色濃く現れた現象を、コトにより”問題”と見えるのは、それだけ「問題以外」の世界に居られている、という事だね。

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現実側に意識を置かざるをえず、ワンの観察が中心なので、上記のメモみたいな「そうか…」シリーズも少ないけども、でもやっぱり「外」、これは現実という今直に触れている世界だったり、身はここにおきながら情報世界の中のふれあいと感じるような、”情報との接触”などというものから、刺激を得て「そうか」などに繋がったりする。

”直に触れている世界”と書いていて手が止まってしまったけども、”世界”に直になんか触れていない、これも「言葉」という事が分かる。現に私が触れていたそれは、(何かに)対処した、その時のモノ(コト)。

それらの事を、もはや”その時”だけでない事象まですべてひっくるめながら「世界」と固めてしまっていると思った。


話を戻して、”観察が中心”になると、その対象の中へ入って行くような(?)意識になってしまう為、またそれらの状態が維持されていて、切れ目があまりなければ、「そうか…」という湧いてくるケースも少ないように感じている。

観察したことを材料にして見える所で”一旦括る”という事は出来てしまうけど、私の現在のケースで言えば、記録しているワンの内容のことも、例えば”その時”にそう見えて書いていた事も、「全然違うな(笑)」という事だってある。

だからと言って、”途中でどうこうする意味はない”のではなくて、経過というものは、それだけゆらゆらとしていて、どこかを少し触れば(いじれば)、関連が変わってくる、という事の方が見えてくる。


表の(表面に見えている事象)ことは、その世界の中で起きている事実は”材料”として必要。考える時に大切な事実。意味を確定してしまうのではなく、大きなものを捉えていく為の、全体としてどういう事が考えられるかという事を見ていく為の、大切なパートなんだと思う。

それを抱え・触れている世界では、どこかでバランス・吸収するように直接触らなくても”変わる”ものがある。

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『カラダの方を見るって…ね。こんなに元気だもんねぇ(*^^*)』

「だって普通は、この”元気”を見るでしょうよ…?」

そりゃそうだ。
私たちは普段、この「様子」というものを、どこを見て判断しているんだろうか。


主人とワンの元気な姿を笑いながら話していた。”元気を見る”、主人の返答がとても自然だと思った。

だけど、後は私が自分の中で考える―――、人はどこを見てるんだろう?”元気”、確かにいつもの食いしん坊ぶりといつもの可愛さと、あまり変わらない。なのに一応”病気”なんだ。

そう思いが湧いて、更にそこから流れて行く。

「そう見える(見えている)」ことと、「現象に現れている」ことと。これを分けて見なければいけないという事なんだ…。現象に現れるというのは、いつものリズム・パターンから外れたもの(こと)か…。

”いつも通り”というのは、確実な”基準”としてあって、”そこから離れて見えるもの”という事の方に常と異なる”異常”があって。それが一時的でなく継続する時、「確かめること」として確実にこちらの意識に上がる。


どちらも言葉で伝わっているものじゃない。犬を相手にしての話だから必然的に”動作”という結果から何かを観ていくしかないのだけど、そこからみるに、人は言語によっての”やり取り”を中心にしている事が多いから、そこに気が持って行かれる。

そこを発展させるコミュニケーションがあるけど、それ以前の自分という人の、自分の中のことすら分かっていない”自分”が決して表現できないたくさんの言葉があるのだから、そこは結局、動物たちと同じように観る部分が必要なんだと思う。

言葉が発達しても、すべては語られない。その言葉自体がかなりのカムフラージュであったりもする。人が利口な分、この言葉によって多くを見えなくされているとも言える。

言葉の前に感じている事がある。その”感じ”も癖になったパターンだったりもする。

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Xポストで白いニャンが丸くなっているのを見て、

『白いニャン、かわいい(*^^*)』

とにやけていた。

ふと。
⦅”白い”がかわいいって、おかしいだろ…?⦆
そう思った。

ニャンは世の中いっぱいいる。その中で「白」に気がある自分を見つける。”我が家のワン達も(今は)みんな白だしな…”と。普段から主人に「白いワンコたち、いっぱい♡」という様な表現をしたりする。

私の中に、この色に対するイメージ、憧れがあるように感じた。

そして、そう感じたならば、すぐさま次の思考は引き出されてくる・・・、

⦅ってことは、私はよっぽどキタナイ・黒いやつなのか?(;´∀`)⦆

と、完全な否定がまずできない自分を捉えながら、内心で笑った。


夜ね、ふと思ったね。

”現実側”って、「身体に寄ること」だよなって。

歳を重ねていくと、あちこちからカラダの声を拾うようになったりする。それを人はガタが来るとか、手入れをしていくとか、労わるとか…色々と表現をするけども、「この身体に意識を向けることが増える」という事は、今まで距離があったことを示しているし、無意識でもよく動いてくれていたという事。

それが、何らかで自分の意識をそちらに向けることが多くなるというのは、もしかしたら、そうして漸く、人生の後半になってやっと自分の身体と一体を実感できるようになる、という事なのか…と思ったりした。

この意識に、漸く身体が上がってくる。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!