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なんだかんだ、生き延びる日々

誕生日。
毎年思うのは「なんだかんだ、生き延びているな」という感覚。

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盛大にお祝いしてくれたり、高級レストランで眺めの良い席を予約してくれたり、サプライズでケーキを購入してくれていたり、プレゼントを送ってくれたり、再会を楽しみにしているといった言葉は、どれもとても嬉しいものだ。

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華やかな言葉が並ぶ中、私はただひたすら「世界は続いているなぁー」「健康だなー」「時折、心地よい風が吹く木々の間にあるハンモックで眠れたらもっと幸せだなー」と思う。

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毎晩、「明日が来なければ良いのに」と思っていた日々はいつのことだっただろう。「この世界が無くなれば、自分も苦しまずにすむのに」と。学校と家が自分の世界の全てだった頃、感受性が豊かな人間は、言葉にできない感情に敏感な故、疑心暗鬼になり自分を苦しめる。「そのままで良いんだよ」と誰かが言ってくれれば、どれだけ楽になっただろうか。でも、その「誰か」もまた自分を生きるのに必死な人々だった。

この世界の息苦しさから、「生きる」の意味を見つけるのに愚直で、超真面目で、人に迷惑を掛けたくない、という思いから、本当に命の鼓動を止めた人々がいる。周りの人々は「なんで、あなたが?」と驚く。でも、私はどこか知っていた。とても身近だった。「意外」などではなく、誰にでも起こりえることなんだと。

皮肉にも、「世界に対峙する力」を身に着けたいと思えば思うほど、自分には時間が足りないと思うようになった。美しい景色を見ては「この景色を守りたい」、理不尽なことが起きたら「この考えが育成された環境が知りたい」、自分が目指したい世界を築いている人々がいたら、その人々の言語や文化を学びたい。

世界は残酷だと思う。生まれた環境で、「生き延びる」ことはおろか、愛を知る前に命を落とす子供たち、言動が制限され、心を奪われる人々、教育の機会を与えられないまま、一生涯、本当の「世界」に触れることなく幕を閉じる人々。そうかと思えば、芸能界のニュースにわざわざ意見を述べたり他人の生活を批判する人々。自分の寂しさで他人をコントロールしようとする人々。そして、「なんで、あなたが?」と言われながらも、いつの間にか自ら「生きる」を止める人々。

私は、なんだかんだ生き延びている人間として、まだまだ学ばなければいけない。「なんだかんだ」と言いながら、もっと「教養」で人と自然を守れる人になりたい。生き延びる術を必死に掴む。そして、かつての自分が欲しかった言葉を、伝えられる人になりたい。

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