共生の世界【本:開発援助の経済学】

2009年に出版された『開発援助の経済学』という本は、変化が著しい開発の世界で、ODAの分野別配分、これまでの日本のODA方針、就業機会を創り、所得水準を引き上げ、生活条件を改善しようとする努力をもつブータン国王の「開発」への想い。もう11年前の本だけれど、それだけに、当時の様子が詳しくわかる。

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日本のODAの特徴:わが国の経験に根差した独自の開発哲学・援助理念
1. 途上国の「自助努力(じじょどりょく)の重視」
2. 小さな政府による援助

ブータン国王:17歳:1960年ブータンの平均寿命は40歳以下→開発をのぞむ 聞き手にとっての「開発」に対する理解を説明できなければ、この質問に対する回答も、曖昧なものになりそう。国王は、現状維持のままでいれば、楽園はいずれ楽園でなくなることも、よく理解していた。ブータンは着実に人口が増加しているから、何もしなければ仕事は増えず、働こうとしても働けない人の数が増えてくる。一人当たりの食糧も減ってくる。もちろん、一人当たりの収入も減ってくる。人口増加の問題。雇用機会を少しでも創り出し、所得の水準を少しでもあげ、生活条件を少しでも改善する「開発努力」が不可欠。→ここから、持続可能な開発。という定義が出てくる。

「援助する国、される国」という本の中で、現地人との対話では、先方は自ら選んで現地の習慣を説明する意欲はなく、当方の質問に答えるだけであることを認識して、自分の質問の不備を補正する謙虚さが必要である。

という文章を思い出した。先方の意欲は別としても、この「自分の質問の不備」も自覚する必要がありそう。「この国は開発をのぞむのか?」という疑問ですら、自分自身にとっての「開発」と、その人にとっての「開発」の前提、定義が、そもそも違っているのかもしれないと背景まで考えること。

勤勉さが報われる機会の創出を。

「自助努力」の重要性とODA
就業機会を創り、所得水準を引き上げ、生活条件を改善しようとする努力
外からの援助なしに、途上国が自力だけで、最低限満足できる成果を上げられればもっとも望ましい日本の経済発展は、このケースにかなり近い例。
基本的には国内で動員できる資金の範囲内で開発が進められ、対外資金導入は最小限にとどめられたから。「自力更生」の理念は毛沢東思想のキーワードとなる前に、わが国の開発思想の中核を形成していた。

マーシャル・プラン:経済援助の原点
南北問題:オリバーフランクスの演説
国連開発の10年:ケネディ大統領演説 1960年代
次の10年:1970年代 マクロ経済指標について目標数字を定める
東アジアの奇跡と呼ばれる大規模な調査プロジェクトby世界銀行 
東アジアの経済発展にはたした政府の役割を一つの焦点として
1980年代:Global Environment Problem
1972年:ストックホルムで国連の「人間環境会議」が開催され、地球環境問題をグローバル・異種―としてクローズアップした → 持続可能な開発
1989年:参加型開発 DAC政策ステートメント

ピアソン報告:国際開発委員会が世界銀行の依頼を受けて作成した報告書 1969年

被援助国からトップ・ドナーへ:ユニークな歴史をもつ日本
1960年代の初めには、日本の世界銀行からの借入額はインドに次いで第二位の大きさだった。援助される立場を卒業して援助する側に仲間入りし、さらに米国とならぶ最大の援助国となった

ガリオア・エロア援助
日本は世銀融資をどう使ったか?道路、電力、鉄鋼の三部門に集中的に使われた→高度成長の時代を支えた代表的な事業。融資の使い方は、当時の日本政府が対外借入に際してはっきりとした戦略と具体的な計画を持っていたことを示している。1990年に世界銀行からの借入を完済。

韓国と台湾も対外援助を開始

ここでも述べられている「日本のODAには確固とした援助理念が欠けている」とする批判。ロバート・オアー教授の1991年に開催された「国際協力の日」のシンポジウムで、「西欧の援助が宣教師の活動という確固とした
根を持っているのに対して、日本の援助にはそのようなものが見られない」と述べた。ただ、我々の考えは、途上国の自助努力を支援する、という姿勢であって、われわれは我が国ODAを説明するうえでのキーワードであると考える。そういった、自助努力への支援(日本の経済発展の歴史的経験に根差したもの「勤勉・耐乏・倹約」)辺境地帯の貧しい村落の生活水準を引き上げることを目的にしたこの計画は、内務省の地域開発局を中心とするタイ政府の関係者によって原案が作られた。もともとは、辺境部の政情を
安定させるための構想であった。ねらいは新しいタイプの村づくりで、そのために貯水池や簡易水道の建設、農道の整備、灌漑用小型ポンプの導入などを行うとともに、指導員が村の女性たちに裁縫や竹細工、ワラ細工を教えて、その製品を販売するようにし、現金収入を少しでもふやすことが計画された。タイ側の創意工夫にもとづいたこの地方開発計画は、必要なアドバイスが行われ、改善された上で円借款の対象に取り上げられたが、この村づくり運動などは地についた現地側の努力の代表的なもので、その努力に対する支援は意義があったと思う。

日本のODAの成長率が高かった理由は、日本が援助後発国であった点にあるし、日本政府が数次にわたってODA拡充のための計画を創り、その実施につとめてきたこと。

主要縁予告のODAの分野別配分で、一番日本が多いのは経済インフラ 
他、米国、フランス、ドイツ、英国では社会インフラやプログラム援助が多い。


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