見出し画像

ご飯大盛り無料

米が好きだ。
白米、玄米、雑穀米、私はとにかく米が好きだ。一生ついていく所存である。
ラーメン屋でライス無料なら当然つけるし、ご飯の大盛り無料の定食屋は自然と通うようになる。
というのは数年前までの話で、残念ながら年々ご飯大盛りは頼めなくなるしそもそもラーメンを食べる頻度もがっくりと落ちた。ライス無料でもつけられない胃の調子の日もある。
それでもやはりご飯大盛り無料を掲げている店が好きなことには変わりはない。
そういった店の、純粋な“めし屋”としての雰囲気がとても好きなのだ。
昨今のご時世による黙食のようなものとは異なる、ただひたすら「うまい飯を食いに来ているだけ」のはらぺこ人間の集う店が好き。
でっかいお皿に豪快に盛られたおかずと、どんぶりみたいなお茶碗に盛られた放たれる湯気までがあまいつやつやの白米、豆皿に乗せられた漬物、みたいな定食で、店員さんも愛想は良いけど必要以上に客に関わらないで出来たてをいち早く運ぶことに徹している感じ、めっちゃ好き。
私は食べるスピードが人より少し遅いのだけれど、だからといって急かされている感じはなく、ただ純粋に食べることに集中できるあの空間。
あ~めし屋に行きたい。太助とか行きたい。

アミューズメント飯屋も好き。
「お客さん」としてというより「ゲスト」として接客してくれるお店。
丁寧に食材や産地を説明してくれたり、おいしい食べ方を教えてくれるお店。
アミューズメント飯屋はいいお値段する分、当たりハズレの感覚が強くなってしまう。味はもちろん、盛り付けや食器、接客なども加味されてしまうせいだ。
丁寧なように見えて形式ばっているだけで心が感じられないお店もあるし、見た目や説明にこだわりを置きすぎて味がそうでもないところもある。
うちの父親は高かろう良かろう精神の人間なので、「良い店がある」と言ってよくそういったアミューズメント飯屋だのホテルだのに連れていかれた。
しかしほとんどが値段ばかりであまり私の好みではなく、本当に「また来たいな」と思う店は一握りだった。
父はそもそもサイゼリヤ否定する人間だし炊き立てご飯を平気でチャーハンにするような男なので、食事に関して彼とは分かり合えないと思っている。

私が最近好きだ~と思ったアミューズメント飯屋は星野リゾート。
ご飯屋さんじゃなくて普通に宿泊施設なんだけど、ご飯がめっちゃ美味しかったし、店員さんはみんな自然体で接客してくれたり、使っている食材の産地の話をしてくれたので楽しかった。
結婚記念日で来たって言ったらケーキも出してくれた。いいやつかよ。
味やお店の雰囲気も大事だけど、結局は人なんだろうと思う。そもそも味も店の雰囲気も、作り出すのは人だもの。


このご時世で私の愛していた飲食店が何個も閉店している。
近所の自家製モッツァレラチーズの店も、地元の中華屋も、旅行先で必ず訪れていた店も閉店した。
これは本当に悲しい。思い出も景色も味も、店員さんも、全部好きだったところばかりだ。
お気に入りの飲食店というものは私にとってパワースポットで、行けば絶対元気になれる、また頑張れる、命をつないでいられる。すぐに行けなくても、「あのお店のあの料理がまた食べたい」という食欲に命を保たれている部分がある。
飲食店がひとつなくなってしまうということは、誰かにとっての拠り所がひとつなくなるということだと思う。
それはじわじわと生命力が削られていくようなもので、削られたことにも気が付かず削がれていく。

そんな時こそ生き物は進化せざるを得ないので、テイクアウトしたものを公園で食べてピクニックしてみたり、自炊に少しこだわりを持ち始めたり、外でバーベキューをしてみたりと新しい食の楽しみ方を見つけ出すこともあったので、いい機会でもあった。
それでも、店屋の揚げたてのカツ、みそ汁に浮かんだ戻りきっていない乾燥わかめ、私より長く居てそうな店の前の狸、準備も後片付けもせずにただ食べる楽しみだけ持っていていいあの時間、すぐ溶けちゃう自家製ジェラート、そういうものに変わるものはない。勝てない。

昨日、1.5リットル瓶に詰めていた小銭がいっぱいになっていたんですけど、これ書いてて全部私の好きな飲食店に使おうと今決めました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?