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『薔薇色の脚』展(中川多理)日々是徒然3.11①


 2023.3.11日、ボクは鳥越倉庫で若い歌人と中川多理の新作人形について話をしていた。厳密に云うと[について]と語れる言葉がなくて、言葉が[未だない]ことについて——の話をしている。まだ言葉をもらっていない白堊の子たち。
言葉が付帯していないものは、卑語に自由にされてしまう可能性がある。だから少し慌ててもいた。
見て思うのは自由だ。しかし其の先、無知の悪意が作動して拡散、周知、定着するのが現代の情勢だ。
そいういう言葉ではなく、この白堊の子たちにとどく、一言を、感覚を、誰かが記述して欲しい。

 12年前の3.11。パラボリカ・ビスは創作人形の最盛期を予兆する展示をしていた。大きな揺れが彼女たちの運命を変えた。(そうそこに男の作家は居なかった。作品はすべて女性の姿をしていた)理由は分からない。衰退がはじまったのだ。だがいち早く、『白い海』というタイトルの展示をしたのが中川多理だった。作品は手足を欠いて砂浜に打ち上げられたかのようだったが、凛とした姿と瞳が印象的だった。
 欠損フェチだとTHという雑誌に招待されたが、とんでもないと、作家は断った。欠損は、一時のこと再生の過程なのだ…作家の意図はそこにあった。そこで発表されたたくさんの人形は、必ずしもお迎えの形で、支持を受けたわけではなかったが、確実に、作家はラウンドをあげていた。必ずここに…。彼女の王道はこの道筋の先にある。
 一方、人形は愛されて所持されて、人形と云う生をまっとうするところがある。持ち主という鑑賞者が人形を発展的に創作していくという面がある。人形の形を変える、カスタムするということではなくて、その反対、ずっと見続ける、そのまま見続けるという行為が、人形を育てるのだ。作家の見えないところで人形は何かの変化をする。そしてそれは作家に影響を与える。見えないところで。だから人形作家の知らないところで、人形のペニスにフォークを突き立てれば、それは作家が知ると知らざると関係なく、人形作家を傷つける。
 人形作品は、見てもらえる人たちとともにあって、その支持がまだこないようだった『白い海』は、柔らかな封印をして、ここに帰るべく迂回を決意した。堂々と…。少し待ってみよう。その間、中川多理は物語をテーマにして作品を精力的に発表し続けた。もちろん人形が被傷されることや、作家が創作の圧力をかけられるというような目にもあったが____________。驚くべきは…ビスクの新作展に、もちろん見える限り…その[傷]というものが一切感じられないような次元の…云えば無傷の人形たちが登場したことだ。これも厳密に云えば、傷はあるのだが傷つけられていない人形なのだ。白堊とはビスクで作られている故に名づけられたのだろうが、傷つけられても傷つけられたことにならない白さをもった硬度をもった人形たちなのだ。其の意味での白堊。そして彼女たちは、「白い海」の裔(ちすじ)、末裔でもある。
 そしてまたそこで言葉は失語症となる。
「白い海」の人形たちの肋骨は、船の竜骨、教会の伽藍のような空洞の枠をもっていた。なので、見た時に人の伽藍——という言葉が浮かんだ。その末裔である白堊の子たちに伽藍はどうも相応しくないような気がする。——ここから先は、言葉の未知の世界。でも白堊の子たちは、確実にそこを未来に向っている。なんだろう。[伽藍]でなく[肋骨]——。そんなことしか反応出来ない。
 若い歌人が言葉を生んでくれないだろうか。そんなことを他力本願でふと思う。
だから——歌を詠まないか?と聞いてみた。

 3.11。ボクは鳥越倉庫に居たが、勅使川原三郎は、アパラタスで『天使』を踊っているはずだ。昨日、初日を見てきた。
天使は、誰の天使もなかった。云えば勅使川原三郎が作ろうとしている天使。これから進んでいくときの[天使]。
 勅使川原三郎はずっと物質/物体か物語、その言葉と踊ってきた。[と]はwithのような[と]。その中に入り込んだり、クロスしたり、ともに踊ったり。それが演奏だったり朗読だったりしたこともあったが…。今回の[天使]に[と]はない。極端云えば、勅使川原三郎自身すらないのかもしれない…。
 踊り終わると、勅使川原三郎は、毎回、だらだらと長いトークをする。とりとめがない。ほって置いたら、踊りにかかった分の時間しゃべっているかもしれない。踊りに言葉や物語や音符や、最近だったらドローウィングが必要かもしれないが、今回は、それも無いような気がする。踊っている最中に止めている言葉が、吐露されているのかもしれない。このような説明的な言葉を踊っている時に動かしているわけではないが、言葉もとめて、流れの構造もなしに、踊っている。
 即興というのとも違う。それはなんとなく分かる。即興は意外と引き出しの中、F1ドライバーで云えばポケットの中から、そのつど出してくる芸のような部分もあるが、それとは違う。ピュアな感じがする。見たことのない動き…何をしているか分からないが…ついていって…いいなぁと思える感じ。カッコつけているのと、晒しているのと、その狭間…。とにかく言葉は無力過ぎる。でも早々と言葉を当てにいこうとは思わない。このままで…。と思う。
 何で踊っているのか?[虚無]か?[死]の予感か?——正直分からない。もしかしたら勅使川原三郎自身もわかなないなにかをもって踊っているのかもしれない。ふとボルヘスの老天使とかを思ったが、首を振って打ち消した。下書きはないんだ。きっと…。何もない。
 誰でもない、誰も見たことのない[天使]。踊りながら構築し、ぐずぐずに崩壊させ…。
デカダンス——。なのかもわからないが…を、感じる。

PS。
超余談の話だが、勅使川原三郎のフライヤーのダンサーの脚が、異様に太かった。薔薇色の脚か?…と。思ったが、勅使川原三郎の自分以外の人形を見る趣味はないから、たまたまの一致なのだろう。一致といっていいかどうかの問題もあるが。
物語を一時停止して、創作をしている二人がたまたま、目の前に素晴らしい動きをしていたので、並べたが、両者の作家に、心よりのご容赦を願いたい。(並べることはある種必要がないことだから…)でも今この時期に、零次元に踏み出している勇気と必然は呆れるほどの凜々さを覚える。
我が身は…ちょっとも少しも及んでいない。かくあるべしとは思うのだけれど。

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