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演劇高校生の[卒業式]/バルチック艦隊の砲声/『葉桜と魔笛』太宰治/3.11③

 偶然、SNSで繋がった元天井桟敷の根本豊さんが、「劇」小劇場で上演される劇団一級河川×島根の高校生「卒業式」を推薦していた。島根と聞いてすぐに反応してしまった。島根の山口県側に近い山陰・吉賀町で無農薬無施肥のお茶を作っているからだ。放置茶畑を中心に手揉みで紅茶、ウーロン茶、釜炒り茶を作っている。近くにある廃小学校も使って地元の学生と交流もしている。なので、見なくてはと押っ取り刀でかけつける。
 「若手演出家コンクール2021」で島根県立松江工業高等学校演劇部顧問を務める亀尾佳宏が最優秀賞を受賞し、その記念で公演をすることになった。島根県立三刀屋高等学校掛合分校演劇同好会、島根県立松江工業高等学校演劇部、島根県立三刀屋高等学校演劇部と劇団一級河川による4団体で合同公演[卒業式]を上演した。大半の演者が高校三年生で、これから演劇とは関係のないところで生きていく。
 島根県立三刀屋高等学校掛合分校演劇同好会は太宰治原作、亀尾脚本・演出による「走れ!走れ走れメロス」、島根県立松江工業高等学校演劇部と島根県立三刀屋高等学校演劇部は太宰原作、亀尾脚本・演出による「葉桜と魔笛」、劇団一級河川は亀尾脚本・演出による「酒とお蕎麦と男と女」を上演する。
 
 島根の過疎の高校生が、演劇好きの国語教師に誘われて、ちょっとやってみるか的に始めたことなのかもしれない。男子三人組はそんな感じだ。演出・脚本の亀尾佳宏が、とてつもない力量をしているのだろうが、演者たちが誰も彼も彼女も、とても素敵だ。ほんとのところは分からないが、擦れていない感じがする。特に演劇に擦れていない感じ。野球で云えば、直球とカーブしか使わない。それでもいけるんだから。それが基本だから…亀尾佳宏は、どうやって励ましたのだろう。
 スポーツでも演劇でも、自分のジャンルで云えば編集でも、美術作家でも、自分のジャンルに対峙する向い方を、斜に構えずきちんと正対する。それから基本技術をひとつか二つ身につけて、それを磨く。たとえば文学系の編集だったら、本が読めるようになる。自分の力で本を読むというのは、なかなか読む基礎力が必要で、早々できるところではない。そこを逃げない。その位のレベルにするので3年はあっという間だ。
 自分は高校演劇の事情に相当疎いので、正確なことは云えないが、高校演劇の甲子園があるとし、やっぱり演劇の顧問は直球とカーブだけでは優勝出来ないとふんで、フォークボールを投げさせたりする。亀尾佳宏はたぶんそういう演劇指導をしていないだろう。むしろ球を投げる前の基礎力、つまり人間力を鍛えようとしている。まっすぐ対象に向わせる、いや自主的に向うというところまでを、誘導する。
 この[卒業式]に出演している学生たちは演劇に特化して生きていくわけではない。カーテンコールで、全員、これから何をしたいか、どうするのかということについて、観客に語っていたが、演劇に進む子は、一人だった。未来、演劇を遣らない子に、腰かけ的にではなく演劇をするということをともにするというのは、どういうことか。終わった時の達成感もひとつの答えだし、それを彼ら/彼女たちは、目一杯獲得していた。もう一つは、短期間でも目的に深く関与して素性の良い姿勢をとれる技術——これは姿勢と云った方が良いかもしれない。を、身につけるやり方を身につけるということだ。
 観客に向って脚本の言葉をきちんと伝える。自分の気持ちを少しだけ載せて。一生懸命伝えようとすれば、気持ちは自動的にのってくる。自分が見た日は、『葉桜と魔笛』の姉妹を演じた、勝部瑞穂(三刀屋高校)と堀江優純菜(三刀屋高校OB)、涙を流しそれがもしかしたら鼻水と一緒になって顎から垂れているように見えたが、顔は前のシーンとさほど変わらず、淡々としていた。一生懸命台詞を云っているうちに、自然と悲しみは身体に湧いてくるのだ。女子高生の正直が、台詞をきちんと観客に向って発生することによって、彼女たちが伝えるものがしっかりと観客にとどいていたのだ。
 この伝える、繋がるというのが演劇の超基本要素のひとつである。脚本・演出の国語教師、亀尾佳宏がそこに導いている。大きな意味で人間を演出しているのだ。そのドラマ自体も背景にあって、観客を感動させる。
 「走れ!走れ走れメロス」は、常松博樹(掛合分校)、曽田昇吾(掛合分校)、セリヌンティウス他 (掛合分校)の高校三年生メンバー。えーこれってさという彼らの生の突っ込みも活かされていて、半分は、俺たちが思うメロスという要素が組み込まれている。これも亀尾の脚本力。日常生活が垣間見れるようなそれぞれの、感じが、見えるようにもつくられている。自分たちの高校の校歌を歌うシーンもあって、松江の過疎の高校生な感じがリアルにそこにある。

 さて、亀尾佳宏だが、一番驚いたのは、明転での転換——。観客の集中力を切らせないように、三本一気に上演したのだが、休憩なしに、暗転転換せずに、観客が見ている前で転換を行ったことだ。それがめちゃくちゃセンスのある転換。
 芝居で使った小道具はそこに放置されたら(散らしたりばら舞いたり…といくらでもある)次のシーンのためにはけなければならない。黒衣を使えばいいのだが、まぁまぁそれはださい。『葉桜と魔笛』で使ってばらまかれている手紙を次の芝居の頭で、匂いのある紙として山羊が食べるというシーンにして[けす]。道具を芝居の中で[はける][けす]のは、演出家のセンスと力量だ。芝居に役立ててけさないとかっこ悪い。(ダンスの演出をしていたことがあって、ちょっと自信があった。2トンの砂を降らせる。その前にセリを使っているので、ダンスの中でセリと舞台の間の隙間を目張りする…なんていうのを観客に気にされずにやったりしていた)ちょっと舌を巻いた。くるりくるり、ケンカに負けた犬のしっぽのように。
 道具は箱馬のような台だけなのだが、ほぼほぼそれで三つの芝居をこなしてしまう。道具を俳優のように動かせないと一人前じゃないよと云われたことがあって、心にとめて演出席に坐っていたが、亀尾佳宏は遥か上級の道具演出家だ。恐れ入ります。もちろん予算も場所も時間も無いなかで鍛えられたんだとは思うが…。

 『葉桜と魔笛』は、もともと太宰治の原作自体が語りの形式になっていて、死を宣告された妹を思って手紙をいろいろしてまった姉の三十五年前の語り口調ではじまる。脚本はその形式ではなく、姉妹二人の会話になっている。
 二人の女子高生が自分のこととして演じやすいように、今どきの感覚を演技に取り入れやすいようにしてあるのだと思う。だけれども、どこか淡々としていて、朗読か語りのようなトーンの中で、胸詰る姉妹の思いが交錯する。語られるようなトーンながら、二人のそれほど変わらない表情ながら、二人は涙を流し(演技じゃなくて泣いているのだろう)顎にまで涙が鼻水ように垂れていて、それは言葉にはできないが…彼女たちの今ここでの演技なのだな…と、つくづく思う。静かにじわじわと言葉を通じて、静かに登場人物になっていくこの感じは、高校生とは思えない。でも高校生だからできる演技なのだ。それにぴったりの脚本にしている。
 これ単に姉妹が思いやるということではなくて、思いやるそれぞれの思いの交錯、微妙な嫉妬とか、そして架空の(かどうかも微妙に書かれている脚本)彼氏の手紙。その彼氏が、うーっという不気味な声を上げるシーンがいくつかでてきて、不可解に心を刺激した。

なんだろうと思って、原作を読んでみた。たぶん、この部分がそこにあたるのだろう。

 どおん、どおんと春の土の底から、まるで十万億土から響いてくるように、幽かなけれども、おそろしく幅のひろい、まるで地獄の底で大きな大きな太鼓でも打ち鳴らしているような、おどろおどろしいた物音が、絶え間なく響いて来て、私にはその恐ろしい物音が、何であるか、わからず、本当に自分が狂ってしまったのではないか、と思い、そのままからだが凝縮して立ちすくみ、突然わあっ!と大声が出て、立って居られずぺたんと草原に坐って、思い切って泣いてしまいました。

 あとで知ったことでございますが、あの恐ろしい不思議な物音は、日本海大海戦、軍艦の大砲の音だったのでございます。東郷提督の命令一下で、露国のバルチック艦隊を一挙に撃滅なさるための、大激戦の最中だったのでございます。~
私は、そんなこととは知らず、ただもう妹のことで一ぱいで、半気違いの有様だったので、何か不吉な地獄の太鼓のような気がして、ながいこと草原で、顔もあげずに泣きつづけて居りました。
 
 太宰治の『葉桜と魔笛』の中にでてくる。
ロシアバルティック艦隊の戦闘音が、松江にまで響いてくる——という件
、である。
はっとして、物語をそこから読み返す。松江…?大宰は松江に何か関係あったけ?と、思い少し調べると、松江住まいの人から聞いた話をもとに、書いたとある。その人は——大宰の妻の「私の母から聞いた話がヒントになっている。私の実家は日露戦争の頃山陰に住んでいた。松江で母は日本海海戦の大砲の轟きを聞いたのである。」大宰の義理の母。
 日本海海戦は、1905年(明治38年)5月27日から5月28日にかけてなので、その34年後ということであれば…1939年あたり。39年なら第二次世界大戦のはじまり、ドイツがポーランドに侵攻した年である。ちなみに真珠湾攻撃は41年になる。太平洋戦争がはじまり、まだ日本は参戦していない、日露戦争と世界大戦の間の、松江をバックに、二人の姉妹が命の灯について言葉を交わす——。という物語であり、それぞれの思いは噛合うことなく終焉を迎える。100日のドラマ。

 今の高校生たちもコロナ禍で、校歌を歌うのも覚えるのもままならない、そういう高校三年間の生活をしてきた。過疎の高校で。(亀尾佳宏がパンフで過疎の高校と云っている)『走れ!走れ走れメロス』からの転換場で、三人の高校生は脱ぎ捨てた服を着ながら、雑談をする。「学校で卒業式したけどさ、誰も校歌歌えなくてマスクのしたで口パクしてた。俺たちは芝居の中で歌うんで、覚えていたから、俺たちだけおっきな声で、おもいっきり歌ってたよな…」ほんとの話だと思う。コロナ禍は、人をばらばらにする。コミュニケーションとか繋がりを断ち切っていく。人間は逞しいので、対処してそれなくてもどうにか生きていく。
 演劇は、集まらないと練習もできない、集団の表現だ。一人ずつが趣向を別に、別を見ていたら、まとまりがつかない。亀尾佳宏は、教師をしていてその現状を痛いほど身に染みているのだと思う。だからこそばらばらでも個性が活かせるように、思い切って表現出来るように、脚本を作り、演出をしているのだ。一人ずつでも舞台に一生懸命を愚直に突き進んでいくことで、最後にぱっと目の前が開けて、表現した舞台は、[繋がる]という演劇の基礎的最大の効果を実現することになった。この舞台は、人に勇気を与えただけでなく、人の行動を即する力がある。
 自分もおそらく島根の彼らの根拠地を訪ねるだろうし、機会があれば、松江からちょうど反対側の吉賀町の小学校でやる、文化の交流会に来てもらうように依頼するだろう。コロナ禍はもしかしたら続くかもしれない。戦争がこちらの側にくるかもしれない。命の継続は前にもまして大事な貴重なことになるだろうし、そう意識しなければならない。太宰治が書いた青春の小説の中にも戦争の影はあり、それを教えてくれたのは、三刀屋高校演劇部の二人の演技である。
 寺山修司は、本気で社会を人のありようを変えようとして演劇をしていた。変えられた一人が自分だ。そして今、高校演劇部の二人の女子と演出家・亀尾佳宏にまた自分を変えらようとしている。彼ら/彼女たちは、人を変えようとして演技しているわけではない。しかし、人は心打たれると変わるものだし、しだいに繋がっていくものである。演劇にはまだ力がある。

最後に演劇風にメンバー紹介と、スタッフ紹介です。
僕の見た回を、亀尾佳宏先生が、自ら紹介してくださいました。
12日15:30の回のメンバーを改めて紹介します。

上演団体
島根県立松江工業高校(松江市)
島根県立三刀屋高校掛合分校(雲南市)
島根県立三刀屋高校(雲南市)
劇団一級河川(雲南市)
*高校演劇のOBなどと一緒にやる時になのる団体名


「葉桜と魔笛」三刀屋version
姉 勝部瑞穂(三刀屋高校)
妹 堀江優純菜(三刀屋高校OB)
男 曽田昇吾(三刀屋高校掛合分校)

「走れ!走れ走れメロス」
メロス 常松博樹(掛合分校)
王 語り 曽田昇吾(掛合分校)
セリヌンティウス他 (掛合分校)

「酒とお蕎麦と男と女」
侍 曽田昇吾(掛合分校)
主人 亀尾佳宏
女房 堀江優純菜(三刀屋高校OB)

野々内と亀瀧は松江工業versionに出演。
10日 19:00〜
11日 15:30〜
12日 12:00〜

そして脚本・演出の亀尾佳宏さんです!



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