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演劇零年/『犬と独裁者』劇団印象 下北沢・駅前劇場


 劇団・印象の『犬と独裁者』を見る。「印象」はindian-elephantの訳、捻ったお洒落な名前だ。初めて見たが、20周年記念だから活動はだいぶんベテランの域。
 『犬と独裁者』(鈴木アツト・作演出)は、スターリン時代のロシアで、弾圧にさらされながら戯曲や小説を書いたブルガーコフの評伝劇である。
 ブルガーコフは1891年キーウに生まれた。医師として白軍・赤軍の両方の従軍医師…(白軍は、反ロシア革命側。赤軍は、ロシア革命側)として働いたあとモスクワで出筆活動をはじめる。白軍に同情的な小説『自衛軍』が注目されモスクワ芸術座から声がかかり、自ら脚色した『トゥルビン家の日々』として大ヒットを飛ばす。チェーホフの『かもめ』以来の出来と云われたらしい。
 ブルガーコフも読んだことがなかった。毎日、戦争報道を見聞きしながら、ロシア文学を読み続けていたが、小説としてのロシア文学に少し疑問を感じて、モチベーションを失いかけていたので、もしかしたらと、買い集めた。どれから読もうかとぱらぱら見ていたら、俄然読む気になってきた。
 ブルガーコフは、1927年頃から、当局に問題視され(反体制的なことを書いた)戯曲、小説ともに発表できなくなり、死ぬまで書けば発禁という不遇のときを過ごすようになる。そして1938年、モスクワ芸術座からスターリン生誕60周年を祝う〈スターリンの評伝劇〉を書くことを依頼される。罠か?復活への足がかりか?
 鈴木アツトは、このスターリンの評伝を依頼されたことに引っかけて、スターリンの評伝劇を依頼されて苦悩する晩年の2年間のブルガーコフの評伝劇を書いた。それが『犬と独裁者』だ。
 ブルガーコフにの小説『巨匠とマルガリータ』を読むと、奇想天外・魔術的幻想譚とでも云えばよいだろう…か、しれっとエロティックな場面も出て来て、文学として面白い。自分には、どこが体制批判的な表現か分からない。聖書を下敷にしているのかな、と、勝手な想像をしながら読んでいる。   
 その幻想的奇想天外のブルガーコフの文体を、鈴木アツトは、戯曲、演出にも取り入れていて、なかなか異色の舞台に仕上がっている。何より感銘しているのが、今のウクライナ・キーウに生まれたブルガーコフを、今のウクライナ/ロシア戦争の文脈に乗せようとしていないことだ。ブルガーコフが生まれたのは、ウクライナがロシアの時代であるし、それが体制反逆の理由でもないからだ。鈴木はそれを明言していて、ロシア人として苦悩したブルガーコフを描いている。



 ミハイル・ブルガーコフ短編集が、ウクライナの大作家、ウクライナ応援緊急出版として出版されている。しかしどうなんだろう、このまとめかたはと、思う。演劇の中では同じく少数民族の独立運動からスタートしたスターリンの姿も描かれていて、少数民族や地域がマイノリティであるところから、反体制的に出てきた人間が、片方はロシアを支配し、同胞を殺戮する人間になり、片やその人間に圧迫される生き方になる…というところを観客に考えもらいたいというのが、作・演出の鈴木アツトの狙いではないだろうか。
 ロシアが、ロシア的にあらゆるものを呑み込んでいき、その頂点に凶悪な権力者が君臨する、その流れ、精神的メカニズムを見ていかないと、この戦争においてウクライナやロシアの文学、あるいはウクライナのような今は国になっている、そしてロシアのなかで国になれていない州の文学について受け止めていることにはならないのでは…と思う。ウクライナも充分にロシア的なところはあり、もちろんだからといって併合していいするべきものではないのだが、ロシアに反攻するウクライナという構図は、プーチンのこの史上最悪にも近い悪魔のような攻めがあっての二国対立だ。
 ロシアのなかにあるウクライナ的なもの、少数民族的なもの、それがロシアというシステムの中でどう圧殺されていったのか、その感覚を摑むことがまず第一のような気がする。問題は常に内部にもあるのだ。
 そんないろいろを真摯に考えさせるきっかけになった劇団印象の『犬と独裁者』に感謝したい。

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