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中川多理 Favorite Journal/韃靼から大連へ/Passageの棚から/清岡卓行『アカシアの大連』/鮎川哲也『ペトロフ事件』

 中川多理のPassageの棚に、大連関係の本がちらほら見えるようになった。果たして興味は、サハリン・韃靼海峡から大連に向うのか?『特集あじあ号復刻時刻表』『図説・満州都市物語』もある。
 いつものように本棚から目瞑って本を抜く。安西冬衛『軍艦茉莉』、山口誓子『凍湖』、清岡卓行『アカシアの大連』、鮎川哲也『ペトロフ事件』、小川哲『地図と拳』。
 今、韃靼から目が離せない。韃靼は安西冬衛を起点にした日本詩のモダニズムの発生に重要な地理的距離をもっている。そして韃靼は、ブッツァーティの『タタール人の砂漠』にあるように、[北方に憑かれたサガレン病](樋口覚昭和詩の発生)という世界的疫病でもあって、北から魁異の攻勢があると描く作家は一人二人ではない。
 そして韃靼は、未来、現在、地政の要所でもある。2017年のプーチンの地勢図には、サハリン、北海道へ連なる侵攻路のとば口として、韃靼海峡に蒼いペンで橋梁が描きこまれていた。韃靼海峡は常に蒼ざめた月を抱いて、隈ひとつなく凪の油面の色をうねらせている。
 韃靼、サハリン、忘れないよう『サハリン島』(エドゥアルド・ヴェルキン)を追加でもち帰る。

 韃靼海峡と大連をつなぐのは、一篇の詩。
てふてふが一匹間宮海峡を渡って行った 軍艦北門ノ砲塔ニテ
 『亜』19号(1926年大正15年昭和元年五月)安西冬衛。
北門は、大連から海を見わたした時、遼東半島を軍艦に見立てれば砲台のように海に着きだしている地域になる。
韃靼海峡と云えばてふてふ——モダニズムの創生、安西冬衛の大連での詩誌『亜』
『軍艦茉莉』にも収録され、
 てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った 
と変化している。

 安西冬衛のいる大連へは、ロシア経由、一端、北上してから南下しよう。稚内から宗谷海峡を渡り、樺太を縦断して亜港(アレクサンドロフスク・サハリンスキー)に着き、そこから韃靼海峡を渡河して、シベリア鉄道に乗る。韃靼海峡は、流氷の季節は、徒歩で渡ることもできる。最狭部は僅か七㎞。シベリア鉄道経由で哈爾浜に。そして待望の満州鉄道・亜細亜號で哈爾浜から南下して大連に入る。
 大連は、元々は青泥窪(チーニーワン)という寂しい村だった。上質な青泥がとれたと記録にある。青泥を掘り過ぎて窪地になったので、青泥窪と名づけらた——。青泥を何に使ったのか。誰も興味を示さなかったのかその記録が残っていない。家を建てるのに使われたとも云われているが果たして…窪地とは…ゆるやかな巨大漏斗のようだったのだろうか、大連はその底に建設された、のか。1898年、帝政ロシアは、青泥窪を都市開発して、遠方を意味するダーリーニーと名づけた。英語読みはダルニー。
 大連をもっとも小説に記述したのは、『アカシアの大連』を書いた清岡卓行。

 未開発のダーリニはロシアにとって、一口でいえば、宝のように求めつづけてきた極東の不凍の商港となるものであり、同時に、東洋のパリとなるものであった。
 アカシアの木は南ロシアからわざわざシベリア鉄道で運んできた。
 ダーリニの形態にはパリの魅惑がいろいろ投影されていた。
と、こんな風に書いている。
 ダーリーニーは、ロシアの夢の未来都市、繁栄を予定した人工都市。中央にはニコライフスカヤ広場から放射状に道路が走り、電気遊園なる施設もあった。パリ凱旋門あたり模しての都市計画は、帝政ロシアによる本気の、そして夢の都市設計である。しかし1905年以降は、都市設計の思惑も夢も持ち得ない日本陸軍に占領され、なんとなくロシアの都市設計図をなぞって開発された。

幻想都市大連。
 清岡卓行は、1922年、大連で生まれた。彼の大連での12歳から15歳の間が、安西冬衛が『亜』で、モダニズムの詩を創生し、軍艦に少女を宛てていた、『亜』の出版期になる。清岡卓行は、安西と同じ時期に大連を過ごした。詩人としてスタ-トした清岡卓行は、もちろん安西冬衛を意識して『亜』全号を借りだし読み耽っている。そして大連の安西冬衛をリスペクトしている。清岡卓行、1947年に大連日僑学校の教諭となり、沢田真知と結婚。長男が生まれたあと、49年妻を失う。
 
 私は不幸に絶えなければならず、悲しみの詩を、それらの批評によって、内部と外部の交錯する現実のなかに厳しく客観化せざるにはいられなくなった。
具体性を細部にまで緻密に組み立てるために小説の散文を選ぶ。(清岡卓行)

 詩には大連があり、真知が居た。
そして、「ああ、きみに肉体があるとはふしぎだ!」と詩に読むのだ。
あらかじめ彼方をもった彼女。そしてそのままに大連に消失していく。

残された詩人は、哀しみのもと、喪失を客観して見るために、詩を書く。書くのだが、詩ではできない、散文的な小説でしか記述できないと。以来、清岡は、大連を小説で記述し続ける。できるだけリアルに。記憶と何十年もたったあとの中国の大連の建物を重ね合わせながら、一つ一つ、、詳細に都市を記述する。そのなかにしか真知は棲めないのだ。真知は浮かび上がらないのだ。真知を記述することでしか甦らない、大連の風景の中にしか存在しない真知。真知を実在とするには、大連を描かなければならない、彼女のいた大連を。
 究極のノスタルジー/郷愁である。郷愁は、不在によって起きる胸のうずくような思いがあって、[郷愁]という言葉は成立する。懐かしさではない不在の痛みだ。
 不肖、自分は、郷愁の意味を始めて知った。タルコフスキーやメカスは、ノスタルジーを描いていたのだ。今、猛烈にその二人の作品を見たくなっている。不在と喪失…それが風景を描くのだ。
 ところが、清岡卓行が、大連をリアルに記述すればするほど、それは、朧に得体のしれない不確定さに陥って、云えば幻想の都市に変貌していくのだ。漠としたそれでいて綺羅綺羅とする、そして北には韃靼、南には軍艦の居る海峡や港があり…かつての理想都市は——地図の中で、何度も何度も名を変え——近づき得ないものになり、しだいに文字では記述出来ない、朦朧とした蜃気楼都市にもなっていく。
 ふと思うのだが、大連は、リアルな記述をさせてしまう都市ではないのか。棲んでいたのに体験豊富なのに…書いても書いても資料を使っても、大連は姿を現さない。
 大連の亜細亜号の時刻表を使った最初の探偵小説『ペトロフ事件』(鮎川哲也)もまた、大連の記述に囚われている。鮎川は、再販されるたびに、出版社が変わる度に、よりリアルに大連の記述を書きこんでいったと伝えられる。當時の大連のようすが分かる作品として、『アカシアの大連』と並んで評価されている。

 中国に行けば大連は、まだ旧日本の建物を多く残し、帝政ロシアの構造図にしたがった都市景観をもち、そして今は、中国の繁栄下にもある。大連は不凍港を抱く、いまでも中国有数の貿易港なのだ。そこに大連はあるのにとどかない。むしろ朧になっていく理想都市、夢想都市・大連。

具体を、実を書けば書くほどに、対象を虚にするメカニズムは、幻想文学のそれではないか。大連は都市としてその機能をもっている。同時期の上海はたしかに魔都ではあるがそれはない。

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