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『文學界』編集部T様へ其の参/『奇病庭園』朗読ライブ『耳に就いて』/川野芽生/とかげ


    
 ついでに検査した内視鏡上側で、いくつかのポリープが発見され十二指腸に関しては経過観測、胃の方はピロリ菌不検出で、この一連の騒動も一旦の執行猶予休暇をいただくことになりました。
 さて、だからと言って、Tさんからの宿題が進むわけでもなく、刻々と時間が迫ってきています。今日は、先日、一緒に拝見した川野芽生さんの朗読「耳に就いて」について、思ったこと考えたことなどをメモして、その宿題の代わりにしたいと思います。

『耳に就いて』——『奇病庭園』朗読ライブ

 示し合わせて呼応する声と音は…粒子のレベルで混淆して空間を広げ、視界の彼方に人外ひとならぬものたちの聖域を作り出し…気配円蓋とでもいうようなもので域を確保していました。
その裡で囁くような…耳元で響いているのに彼方から円蓋に反射して送られてくるような声は、意外なスピードで文字列を滑っていきます。小説には楽譜のような速度記号が書かれていないのに。今度『奇想庭園』に速度記号をふってもらおうかしらと、ふと思ったりもして…。シケインでの減速は、充分にスピードを落として…あ、あ…ここにも演奏記号が書かれているようだ。消音されたスタッカートのような…文末の間合いは、さらにセイレーンの引込線になって、ふっと魔の声を予感させる。

——『奇病庭園』をこのスピードで再読してみる。作家の速度に倣って…それは、ここで、速度感スピードと減速感をならったのだから。

 音に乗った言葉たちの声の連鎖は、ペアリング——呼応する声と音によって成り立っている。
朗読(川野芽生)と音楽・伴走のいや伴奏(とかげ)の——
[示し合わせ]によって…共闘?共犯?…いずれにしても示し合わせる、その瞬間が大切。

T様へ。
僕らの時代の朗読とは、だいぶ感覚が異なりますが、それがとても心地よく受け止めました。最近見た、大駱駝感公演も、女性が振付・演出をしていて、麿赤児さんは監修に廻っていますが、三人の女性舞踏手が、ペアリングのような感じで絡んでいました。(三人だからペアじゃないですね…なんと云うのだろう…か)コミカルだったり、ちょっと月下の群れ的なロマンティシズムを感じたり、とても踊りが良く見えて、楽しかったです——などの様な舞台は、女性たちの表現のあり方が明らかに変わってきています。観客の方に向いていながら、同士の舞台上のコミュニケーション的やりとりが表現の核になっています。そんなことも思いだしたりしました。

 昏い中でパンフレットにメモ書きしたものを写しておきます。

身体性はないという発言を良く聞くが、声は身体性をもっている。
声が——不思議な欠如と存在を証明している。

各所に
人ではなく魔族というマイノリティたちの貌がみえる。
魔族はロリータと置き換えても良いけれど…それは世間的には誤解を招くので、魔族あるいは人外ひとならぬものとしておこう。

姿の通り人があるなんて人はそんな素朴なことをいつまで信じているのだろうか…。

朗読というより声読という言葉が浮かんで…辞書を引いてみると——朗読は、声が清くすみとおるとある。
〈朗読〉で良いということだ。

川野芽生の朗読は、言葉の中に入る声の朗読。
タイトルの『耳に就いて』は…
(感じ得ない。なぜなら僕は耳が悪い、音痴だから。いつか感じられるようになる能力は欲しい)
あ、そうか、川野芽生は、小説を書くときも、言葉の中に入るのだ。

(あとは判読できない…)なのでT様、今日はここまでで。


『奇病庭園』/川野芽生に就いて——。 『文学界』編集部T様へ 其の弐

日々是徒然/『奇病庭園』/川野芽生に就いて——。 『文学界』編集部Tさま 其の壱


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