フラッシュメモリー/20220414『小村雪岱随筆集』①
来るものは拒まない。
むしろそこに積極的に身をまかす。自分の欲動が少ないので、向こうから来るものには、いろいろな意味で縁が成立しているのだと思っている。しかしどこか中途半端なところもあって、須賀敦子さんの『本に読まれて』のように本に呑まれてしまうというような、潔い感じでもない。どこかで腰が引けているところもある。かといって、目次であたりをつけて、一気に速読するような達人芸にはまったく興味がないし、これまた身体がついていかない。もうそろそろ思い切って読書しても、胸襟を開いて本を受けいれてもと…いや違うな…。胸襟を開くとは積極的にこっちから開くことを言う。開いて受けるという感じ。できれば開くというのも意識しないと素敵だ。気になったもの/気に入ったものは、自然と入ってきて巣くう…そこにできるだけ正直に反応する。そんな感じか…な。
おや、身に入り方が違うなと…。
『日本橋桧物町』を再読したあと、『小村雪岱随筆集』(真田幸治編)を読み始めたときに思ったことだ。どちらも小村雪駄が書いたもの。だから『小村雪岱随筆集』を読み出して、ちょっと驚いた。雪岱が側に居るようだ。雪岱と一緒に竜泉を歩いている気分になった。『日本橋』というタイトルに気をとられて、日本橋のこと、そして鏡花の『日本橋』の日本橋を念頭に置いて読んでいた。(ちなみに日本橋の文章は長谷川時雨『旧聞日本橋』が好き…)雪岱は竜泉辺りの浅草の雰囲気を身に纏っていて…文学者たちの浅草記述は、浅草公園、六区、そして塔下……だが、その奥にある土手と竜泉、樋口一葉の浅草は余り描かれない。雪岱の身体には竜泉あたりの下町感が身についている。浅草は通って来て遊ぶところ…まぁ文学者はそういうことになるだろう。小村雪岱は居るところ棲むところ。
『小村雪岱随筆集』を読むと今まで自分の抱いていた雪岱と違う雪岱が——そしてこれが雪岱のリアルに近いんだと思った。雪岱はそばに居て息遣いまでも伝わってくる。このあたりでたまらず後書きを読んでしまった。なるほど…。随筆は初出を使っていると。雪岱でも忖度したり頼まれたりして、ちょっちょっと再録と単行本になるときに手を入れている。真田幸治は、まめに初出をあたって、書かれた時のままに随筆を再構築した。初見のものもありそうだ。素晴らしい編集、素晴らしい装幀だ。自分が…というより、雪岱の本当を、見て欲しい…そんな想いが伝わってくる。文字が書かれた時の身体性を再現すると、これほどまでに息継ぎとか、雰囲気とか、向かう姿勢とかが伝わるのだと…驚愕の思い。「おや」が「おおっ」に変わる。
たぶん、『小村雪岱随筆集』をこれからも読み続けて、雪岱の創作のあれこれ、できればその秘密などにアプローチしていきたいと思っている。たとえば
『雨月物語の装釘』
此間の夜珍しく寝そびれた苦し紛れに年来大好きな雨月物語の装釘を工風致しました。元より無一物の建物設計と同じく全くの空中楼閣であります。
こんな風に書き始められている。文が粋に歩いているとでも言えばよいのか…。とにかく雪岱文章がうまい。先輩の鏑木清方も文章を上手としたが、その清方が絶賛している。(どこで書いていたか失念)その鏑木清方の文章を大佛次郎は、鏡花より良しとする。じゃぁ…雪岱の文は…ということにはならないが——。さて雨月物語の装釘は仮想のもので、雪岱こうしたいという願望をかいているもの。
(表紙)に唐墨の良品を用いて木版で左の文字を細楷で僅かに読める位の濃さで刷り度いと思ひます。
とあって、漢詩が全文書かれている。これ間違っていなけれど(いるかもしれない…)李賀の詩文で、全文書いているのも…もう本気のことだし…李賀は『雨月物語』のインスパイアーされるところで…最近、雨月に嵌まって、現代語訳違いを5冊並べて楽しんでいたのだが…李賀を知らずあわてて買い求める始末。
雪岱は、できあがりほやほやの連載小説に、さっと応じて描く達人でもあったが、もともとは読み込んで、愛着して…というところを原点にしている。作の読み込みはただならない。短い『雨月物語の装釘』の一文を六ヶ所引用して挿画を描きたいと。
「影のやうなる人の僧俗ともわからぬまでに髭髪もみだれしに葎むすぼほれ尾花おしなみたるなかに蚊の鳴くばかりのほそき音して物とも聞えぬやうにまれまれ唱ふるを聞けば、紅月照松風吹 永夜清宵何所為」
僕の大好きな青頭巾からはここを抜いている。
そしてこの文はこう終わる。
うまく書けたら実に嬉しいでせう。次からつぎととりとめもなく考へて居るうち何時の間にか眠りました。
「私の好きな女三態」とかもう身体に入ってきてしまっている文章、他にもいろいろあるが、それはまた別の機会に…。改めて思うのは、編集・装釘の真田幸治の小村雪岱愛である。だいたいにして愛というのは、自分が独占したくなる方向に動くのだが、真田は、小村雪岱の身体性を大切に、紙の本に手触りよく再構成し…雪岱の見えざるところも読者と共有したいという開いた本造りをしていて…それはもう、称賛を超えて感謝という他はない。
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