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日々是徒然『人形歌集 羽あるいは骨』 川野芽生 人形◆中川多理/中川多理展「廃鳥庭園~Le Jardin abandonné」頌①

 此の歌集には、
飛び去りし春丸をみるみこの眼をする水無月のLighthouseは〈高丘親王〉

の歌がある。中川多理が、澁澤龍彦の「高丘親王航海記」に寄せて制作した高丘親王の人形を詠んでいる。M音の長閑き音律があって、最後に出てくるLighthouseは、展示のときの、船に乗った白い親王みこが、幻想を表するものたちの一つの指針/灯台のようになっていることをどこかで写しているようにも思える。人形と原作と見立てとが、相俟って、これから虎に喰われるとは思えない親王の凛々しさもまた感じさせる。
中川多理は、物語を題材に人形を多く作っている…それは夜想『夜想#中川多理―物語の中の少女』に見られるが…物語全体を本歌取りして作られる。中川の『高丘親王』は、物語のある場面だけをとったものではなく、親王が若い頃の姿も反映しているし、親王が死に向かうときとほぼ同年齢の頃の澁澤龍彦も写されている。
 『夜想#中川多理―物語の中の少女』は、中川多理の個人特集になっているが、元々は多くの作家たちに、物語によっての創作をお願いした結果、人形作家が物語を持て余し断りがたくさん入ってきて、ボナ・マンディアルグ『カファルド』もホフマンも、鏡花も貸した本が戻ってきた。ホフマンなんてもう人形で表現するものはないからさ、できないよと、人形教師で作家の先生は企画自体を嗤っていた。中川多理は、黙々と小説を人形にしていって、そうして彼女のワンマン特集となったのだ。
 小説を人形にというとき、たとえば、泉鏡花の作品を人形とするときに、映画化された泉鏡花作品の一シーンから作るとか、印象的象徴的シーンから作るとか…そんな風にして作る——のが従来のやり方。実際、そのような作法で、展覧会が行なわれたことがある。(中川多理は誘われて参加していない。あの先生は参加している)
 創作人形の作家は、小説の言葉から想起する。読んで全体から一つの身体を紡ぎ出す。若い貌ももったままの老年を作ることもある。それは原作の全体を一つの流れにするためだ。また中川は、三島由紀夫の『癩王のテラス』のジャヤバルマンを三態の身体に分割して表現した。言葉は、物語は、そのように人形の身体に反映される。
 川野芽生は、物語を本歌にして歌を詠み魅力ある作品をつくる歌人である。(もちろんそれが主流という分けでもない)此の歌は、人形に向けて…いや川野場合、人形に向けてではなく、人形を基点に人形から詠まれた歌なのだと思うが…プラス澁澤龍彦の『高丘親王航海記』の物語、その言葉も搦めて歌われている。
 さて、作家にも人形にも寄り添って、かつ、自分(この自分も歌人としての言葉としての自分)であるという歌を、如何様に此のスピードとクオリティで詠めるのか…その驚きは中川多理のスピードとクオリティの関係と同じであるかもしれない。芸術的であり、かつ王道を意識しながらのジャンプをかけていく作家ならではのことかも知れないが、その能力にはただただ舌を巻くのみである。多くの優れた創作者の側に寄り添って、作を見てきた自分は、ある程度、創作の秘密的なポイントを体験してきたと思うが、中川多理も川野芽生も掴みかねる、創作才能の発揮ポイントがある。

たとえば、川野芽生、
 世界は言葉でできていると明言している。その言葉でできている世界ということと…パラボリカ・ビスに来廊してじっと人形を見つめている川野芽生に不思議を覚えた。自分にとっては人形はオブジェから発生している創作物で、「私に肉体はない」とも云っているので…人形の何を見ているのだろうかと…。
 その時だったか、次にパラボリカ・ビスを訪れたときだったか…僕は、川野芽生に、「世界は言葉でできている…人形も歌にして詠めたりするのでしょうか?」とその秘密と微妙な立ち位置を感じ取りたくて聞いてみた。即答で返ってきた。「読めますよ」僕は気づかれないように息をのんだ。(川野芽生には見抜かれたかもしれない)
どの人形を?
「全部」また答えは質問に被さるように返ってきた。

 川野芽生が敬愛する山尾悠子の誰もが引くフレーズに『誰かが言ったのだ、世界は言葉でできていると』がある。川野芽生も『Lilith』のあとがきを「私は世界は言葉でできていると、思っています」で書き始めている。山尾悠子の「世界と言葉の関係」と、川野がいう「世界は言葉でできている」ということの——作品への現われは、だいぶ、位相が異なるように感じていた。
 たしかに、ある種、不合理を含む人形は、言葉が苦手な世界のように思える。山尾悠子も、直接的に中川多理の人形について語らない。(語れないのかもしれない。何度もお誘いしたが、その度ごとに、小説が届けられた。その小説の鳥は、山尾悠子の鳥であって、…あたりまえだが…中川多理の人形ではない)ので…
 言葉で表し難い…典型の慣用句では語れ易い人形に対して、躊躇なく歌を詠むという反応に、僕は、実現化に全力を注ぐことを決めた。お願いからほどなく歌が送られてきた。それが此の

『人形歌集 羽あるいは骨』 川野芽生 人形◆中川多理
/中川多理展「廃鳥庭園~Le Jardin abandonné」頌
になる。
 個人的なことだが、ものと言葉を考える旅がはじまる。冒険にも近い気分だ。もしかしたら、どこかで二人の科学反応が起きるかも知れない。もちろん起きないかもしれない。離反するかもしれない。それも含めての冒険だ。
ミルキィ・イソベが全力で装釘を仕上げた。(いつも全力だけれど)いくつかの無茶な提案を素敵な仕事にして実現してくれている。
展覧会の予約はこちらから
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