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『彼の娘 彼の写真』(galleryandspicyfoods_p) 『彼の娘』(文藝春秋) フラッシュメモリー20220501

飴屋法水をAというイニシャルで記述したことを思い出した。現代美術を専門にした『EOS』という自分の雑誌でだ。
あるとき編集部に遊びに来ていた(編集のOのバンド仲間だったから)ときに、「なんで飴屋法水という名前があるのに。Aなんだ?」と軽い口調で抗議を受けた。」そうしたのは自分は文章が下手で、記事のようにすると少しはましになるからだったと思うが、そのときうまく答えられたか分からない。その後、ずいぶんたってから飴屋に「あれ、分かった。」と、言われた。「何が?分かった?」と聞いたが返事はなかった。今だに気になっている。

写真展「彼の娘、彼の写真」が吉原ソープ街のさらにコアなところにあるギャラリーで開かれていた。たまたま飴屋が居たので10年ぶりくらいにお喋りをした。ほんとうに久しぶりだ。くんちゃんにお父さんが17歳の頃に……あれっそれであってるかな……でも10代は間違いない……会った人ね……と紹介してくれた。飴屋には少し前に北千住でやった演劇の話を聞いた。[閾]を越える時のその前と…範疇外のことを飴屋はしている……もうちょっと考えないと文字にはできない。くんちゃんにも聞いた。きっと百万遍聞かれたようなことだと思うが……はじめて聞かれたかのようにまっすぐ話してくれた。写真に写されているのを気がついていたの?気づいてはいないです。でも二人は丁寧に僕と応対している。アップの写真を指してあんときもだよね……と。こっちを向いている写真がほとんどない。後ろから横から……ちょっと離れてとっている。その空間に飴屋の見守っている視線が写ってる。正確に言うと視線じゃない。見る線はここにはない。身体で包み込むような空気がある。でも自由で……。その感じを伝えたかったのだが、言葉がなくて、不謹慎なことを言った。リードに馴らした後だと猫はなんとなく距離をとって散歩するようになる。自由に歩いているんだけど、なんとなく付いてきてくれているのを知っているし、でも自由……危ないことがあったら助けに来てくれる。そんな感じ。くんちゃんは猫じゃないし、どうみても父親と娘の関係じゃないし、まして飼っているのに準ずるような親子でもない。どの写真もあったかいよね。飴くんのくんちゃんへの何かがふわふわと常に包んでいる。ふわふわを愛情というとなんかかなり違う気がする。ようやく慣れてきて飴くんと昔の呼び方で話しかけたりできてきた。くんちゃん撮られている時、自我ってあったの? ない。おっ自我って言葉をすんなり……そうだよなもう高一なんだもんな。ということは、写真の中のことは記憶にはまったくない。自我がはじめてめざめたのは……めざめるというのも余り相応しい言葉じゃないな……鉄棒でくるっと……この写真のとき?飴くんが写真を指す。この時じゃない別の時……。僕は、くんちゃんがはいはいをして(はってなかったか?ちょっと曖昧)舞台に出てきて……引っ込めようとしたら泣いたりして……で、飴くんはずっと舞台の上にくんちゃんを上げ続けた。舞台の上で自我ってあったの?記憶も自我もなくて……今はある。後で本人の記憶に残らないその時を写真に撮ったり、共同作業したり、本にしたり……。これがある種、やりたかったことなんだろうな……と思った。もちろん計画とか意図とかではなくて、くんちゃんのやるように、行くようにということなんだろうな……。『彼の娘』の彼は飴屋法水で、娘はくるみ。だけど三人称的に書かれている。その時に、昔、飴屋法水をイニシャルで記述したことを思いだした。でもそれとはだいぶ違うな……。北千住の舞台、写真展、小説……どれも同じ姿勢が見える。共通しているのは、飴屋法水自身の自我も希薄になっている/しているということだ。[彼]とは飴屋でありながら彼である。第三者的というのではまったくなく、むしろ、自我を身体の奥に沈めているような感じ。(あってるか分からない……)
会ってすぐに飴屋はギャラリーにぺたんと坐り、僕もその姿勢は好きなので、迷惑かなとも思いながら前に坐って、話をしているとほどなく「身体は大丈夫なの?」と聞かれた。それを死に至るような病はもっていないの?という質問にとれたので、最近、死ぬ感覚が向こうから来て、がらっと変わった。呼ばれているか近々なんかありそうな気がする。と答えた。僕もけっこう前からかな……とぼそっと——。自我は死んだら消えるのだが、自我がまだない子どもの——その時間と向き合うということは……とか、自分の記憶の中にある……たとえば父親の存在とか。父親の自我はもうないけど骨はあって……とか。[彼]が死んだ後、いき続ける彼の[娘]とか……。通常の感覚で言えば、時間の軸が揺らぎながら、今、ここで、今、そこで……演劇は行われる。本が書かれる。写真が展示される。声がする。飴屋独特の語り。その声は本からも写真展からも聞こえる。少しくぐもった囁くような自分に言っているような……表現は……何かを訴えるとか、何かを言いたいとか、が、あるものだと教わってきたが、どうもそうじゃない。飴屋は答えの方向に向かっていないし、答えを誘導する問いを提示するわけでもなく、もっともっと不可思議な深遠のようなものに触れようとしている/手にもとうとしている……。のではないか?

不思議と言えば、17歳の飴くんにあって、今、60歳を越えた同士ではじめてのように1時間話をして、それが一瞬でつながっているような感覚もあり……そうして僕の方は舞台を見続けるのだろうけど、今度いつ会って話をするのか分からない。40年後、くんちゃんの記憶の中にきょうのことは残っているのか。どうか。

(敬称略)


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