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建設的で健全な父性とは…

私は、健全な父性をほとんど知らない。
生まれてきて初めて身近に暮らした唯一の男性である父親は、私に暴力を見せつけ、傷つけ続けるものだったから、気付けば全面的に拒絶し否定する対象になっていた。
父性の声や足音や気配が、全てが恐怖と不安の対象だった。できる限り私の中から排除し続けていた。
そして父性と男性性とを、私の頭はごっちゃにしてしまってるところがある。男性全般は、父と同様とまでいかなくても基本的に苦手。
(酷い暴力を見せられ続けることは、暴力によって身体に直接傷付けられることと同等に精神を病むと言われている。幼い子供にバイオレンス映画を観せたり、大人の暴力や戦争に巻き込むなんて、経験からして絶対にだめだと主張したい。大人でさえ、身体に傷を負わなくても、戦争に行って酷い光景を生で見続けることで簡単に心を病むのだから)


性別関係なく、生き物は男性性や父性を女性性や母性と同じように内包しているものだと思う。
だけど、健全なそれを幼い頃の身近な家族・大人との体験で知ってる人と、いろんな要因で家族として体験できず知らない人とがいる(女性性や母性も同じく)。
どうやったら私は、その拒絶してきた性質に安心して近づき、触れて、体験して、肯定(=健全に内包)していけるんだろうか。

これは精神分析に通う中で生まれ、今でもまだ答えのない課題。ちょっとずつちょっとずつその答えに近づいていきたいのだけど、、、難しい。

女性性や母性と、男性性や父性。そのバランスを自分の中で体感として知る事って、すごく大きなことの気がしている。
他人との関係に本当の平等や対等を知るとき、その体感を自分の中に持ってることは大切なことのように思うから。独りですっとまっすぐ立っている(自律を保つ)ためにも。



昨日は大好きな温泉で心身が心底ほぐされ癒されたあと、ふと、暴力と破壊性は違うのか…と思い至っていた。今までの私は、この二つが団子になっていた。
父が私たちに振り翳したのは暴力で、否定すべきもの。同時に私は、建設的な破壊は肯定したいと思っている。

破壊性と創造性はいつもセットで、生き物にとって大切な自然な行為。既存のものを崩さなければ、新しい流れを生む事も創造を孕むことも出来ないから。破壊と創造は、生き物が成長しながら前進していく行為にイコールでもある。
かたや暴力性は、どんなに言い訳しても醜く後退して行く行為でしかないのだ。

自分の中にこの二つの棲み分けができて少し嬉しくなった。

そして、今のおおらかで雄大な山に囲まれた土地で安心を感じながら暮らすことで、私の無意識的な潜在意識的な部分では、今、肯定的な父性を日々感じられてるのかもしれない…と、ふと思ったりした。ユングに関する本に"山は父性の象徴"とあった気がする。


今日は自己分析の日で、昨日に引き続きこんなことを考えた午前中だった。

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