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今までを振り返ったり、この先を思い描いたりの道の上

親から引き継いだり、受け継いだものが、分かってる以上に自分自身が身に付けていることに気付いた時
心底がっかりしたり、ぐっさり傷つくことがある。
そのがっかりやぐっさりは、一度や二度では済まない。

両親のことを本当に素直に(道徳や社会的理想の親孝行像などは外して)尊敬できていたり、優しさや親しみを持って関われる関係だったとしたら、そのことに気づいたとても、そんなネガティブな気持ちの反応は起きないだろう。
だけど、尊敬も憧れもできないどころか、親が嫌悪感と恐怖と不安の対象であった時、その気づきは自分で自分を驚かせ苦しめる。

だけど、親と子であり、特に幼少期や成人する頃までを仮にでも親子として過ごしていた以上、思考方法や、家族との関わり方、友人や親しい人との関わり方、社会との関わり方、自分自身の生き方などなど…似た物を身につけていて、当然だ。

この手の気づきは、やはり何度体験しても、私にとって大変な心の苦痛と悲しみを伴う。耐えながらも親子として関係してきた時間が長くある以上は、似た習性を持ってしまったことは仕方のないことなのだ…
自分が好まずも、ネガティブな対象としての両親から受け継ぎ引き継いでしまった思考や人との関わり方、生き方を一つづつ気づくまでは盲目に自分自身を傷つけ続けることになる。気付かないからこそ、自分を細かく何度でも傷つけ続ける。


精神分析を受けてから、私は何としてでも、好まず身につけてしまったものは、気付く努力をしたいと思って来た。
なぜなら、親の生き方に自分自身がわかっていた以上に、心底傷付けられてきたと気付いたからだ。

そこから引き継ぎ受け継いだものに真に気づかないうちは、いや、気付かないからこそ、なぜだかわからないけどチクチクと苦しみ続ける。軽く浅い切り傷も、何度も同じ場所を同じように傷付け続ければ、段々と傷は深くなり治癒することなく深まり続ける。
もしも真に気づけたら、その時は、その苦しみを苦しみ切らなければならない。苦しみを正面から受け、最後の痛みを苦しみ切る。
それが出来れば、好まぬ対象から受け継いでしまってたものとは、サヨナラ。。。

全てさよならできてるかは分からないけど、一つづつさよならするごとに心身が軽くなり、コントロールできる自分のエネルギーみたいなものがその度に大きくなってゆくのを、気付けば体感するようになっている。

今までで付いてしまったその傷も、もう傷付ける必要がなくなれば、自然の力で癒えてゆく。傷跡が残ってしまっても、時間が経てば、今の自分が今の自分としてここに在れている証になるはずだと思う。
自分がここまで歩いてきた道筋のように。

その繰り返しが、自分の思考や、自分の人間性を生きるという道の一つなんだと思う。



例えば、内面を含む自分自身が、一棟の家だとして、その建て替え工事みたいなこと。生まれた時から住んでたから気づかなかったけど、ある時気付いてしまった。こんなガタが来たシミ臭い家に住んでたなんて!これ以上住むのムリよ!
建て替えの出費や労力やらが痛いけど、この家にそのまま住み続ける方がなにより心が痛い!
みたいな感じか。

だからと言って、プロの工務店に任せるような事は出来ない拘り症。私は自分の力で、信用する人や尊敬する人に教えてもらったり頼ったりしながら、宮大工並みの住み心地良い木の温もりたっぷりの家を作りたい!ということで、地味でスローな方法を取ってきたし、今もその道半ば。
何より、やっと楽しくなってきたから、この感じでマイペースに組み上げていきながら、自分らしいもの作りを模索し思考し創造していきたいと思う。



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