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【系図】『宗麟の海』大友氏周辺系図 ~偏諱と通字、人物の名前のなりたち~※一部改訂

 最近書いていなかった系図の話。(以下、結構マニアックなので、興味のある方はお付き合いください)
 最近、安部龍太郎の『宗麟の海』を読んでいる。大友宗麟が主人公の歴史小説なのだが、巻頭に登場人物の関係系図が掲載されていた。これに作中に登場する他の人物も加え、さらにほかにも書き加えてみた。


大友氏三代における偏諱

 系図を作成していて、よく分かるのが、大友宗麟の父・義鑑、宗麟(義鎮)、子の義統(吉統)と三代にわたり、一族や家臣に「鑑」「鎮」「統」の文字が見られる。
 この文字は偏諱といい、諱(本名)のうちの一文字を意味し、元々は畏れ多いものとして、下の身分の者がその文字を使うのを避けていたのだが、のちに身分が上のもの(主君など)が一字(通字ではないほうの文字であることが多い)を下の者(家臣など)に与えるようになった。そうすることで主従の結びつきを強めたり、一字をもらうことで、権威を得ることを意味するようになっていた。それが下記の系図からもよくわかる。
※ちなみに戦国時代末期、江戸時代頃から再び主君の諱の文字を避ける例も出てきている

 このほかにも偏諱を受けた家臣は多くいるが、この系図に上がっている人物であげていくと、

大友義鑑からの偏諱:
吉弘理、奈良基、戸次連(立花道雪)、戸次方、臼杵速 など

大友義鎮からの偏諱:
吉弘信・理(のちの高橋紹運)、斎藤実、戸次連(鑑連の猶子)など

大友義統からの偏諱:
高橋虎(のちの立花宗茂)、立花増(統虎の弟)、戸次連(鎮連の子)など

大友氏が受けた偏諱

 大友氏の通字(代々継承されてきた諱に入れる文字)は、「親」だったようだが、宗麟の祖父・義長の頃、家中の混乱をおさめ、11代将軍・足利義高(義澄)から家督の正統性の承認を受けた際に偏諱を受け、(もとは親匡と名乗っていたが)義親と名を変えている(のちに義長に改名)。また、宗麟の父・義鑑も初めは、親安(のちに親敦)を名乗っていたが、12代将軍・足利義晴より偏諱を受け、義鑑と改めている。宗麟は、元服の際、足利義晴より偏諱を受け、義鎮と名乗っている。義鑑のもう一人の後継者候補であった宗麟の弟・晴英は、足利義晴から「晴」の字を受け、晴英と名乗り、後に大内家当主となるときに、13代将軍・足利義輝より偏諱を受け、義長と改名している。宗麟の子、義統も同様に、15代将軍・足利義昭より「義」の字を受けている。(ちなみに宗麟の子・義統は、豊臣秀吉から「吉」の字を受け、吉統と改名しており、偏諱を受ける先が、足利将軍家から豊臣家にシフトしている) 
 このことからも、一族家中から当主の正統性を示すため、抜き出た存在を示すために代々将軍家から偏諱を受けていたことがわかる。

大友氏による一族・家臣への偏諱

 その他の大友氏の人物や庶流の一族は、一族の通字である「親」の文字を多く使用していたように思われる(宗麟の子の親家・親盛や宗麟の従兄弟にあたる大内親貞、大友氏庶流の一族の戸次親家、入田親誠など)。
 一族や家臣は、主従の結びつきを強める意味でもその時の当主から偏諱を受ける傾向にあったようである。後に立花道雪(実際は立花性は名乗っていなかったらしい)で知られる戸次鑑連も、もとは親守(のちに親廉)と名乗っていたが、家督相続の際にその時の当主、大友義鑑から偏諱を受け、「鑑連」に改名している。その後も猶子の鎮連、その子の統連とその時の当主から偏諱を受け、大友家と主従の結びつきの強さがうかがわれる。(通字ではないかもしれないが、戸次鑑連以降三代にわたっては、当主は「連」の文字を受け継いでいたようである)
 吉弘氏(高橋氏、立花氏も含め)にいたっても、理、信、理、虎、増と3代にわたって偏諱を受けている。

偏諱とは?

 このように、大名は将軍や有力者から偏諱を受けることで、内外にその正統性や権威の裏付けとした。(また足利将軍による偏諱は、資金集めの側面もあったようで、偏諱と献金がセットとなっており、偏諱をたくさん与えていた将軍もいたようである)一族・家臣に対しては、主従の結びつきの強化として、一族・家臣の側としても、偏諱を受けることで家中での地位を確立していた。

 そんなことが系図からわかり、それぞれの人物の名前がどのように成り立っているかがわかると面白い。学校の日本史が嫌がられるのには、似たようなたくさん出て来るからと言っている人がいたが、まず「偏諱」と「通字」のことを教えたら日本史も面白いと思うのは自分だけだろうか(笑)

※系図が細かくなってしまい、読みにくい部分もあるので、ダウンロードできるようにしてみました。興味のあるかたはどうぞ。


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