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スマホ、好き?

 いつの時代であっても、人間の本質は不変なものでしょうか。

 社会によって、人間は変化していくのでしょうか。


 学校へ行くために電車に乗る。車内を見渡す。ほとんどの人がスマホを見ている。

 みんな何を見ているんだろう。何をそんなに夢中になっているのだろう。

 暇だからスマホをいじるのか。その時どうしても使わなければならないことがあるのか。みんながいじっているから自分もいじるのか。スマホが無かった時代はみんなどうしてたの?

 電車という不特定多数の人が共存する場を、いかにやり過ごしたいたのか。新聞、書籍、ガラケー、音楽プレイヤー、スマートフォン…。その時代ごとのツールで、自らの世界に入り込んでいたのだろうか。

 電車の中で特に何もすることなく、真っ直ぐ前をみながら立つ。私は周りにどう思われるだろうか。不審な目で視られる。異物として扱われる。実は、何とも思われていない。周りは私を微塵も気にかけていない。が、なぜか落ち着かない。そして私は自然と、何かで目線を隠す作業をしなければならない。何かを見ていないと、この場をしのぐことはできない。


 私は時々思う。この世からスマホが無くなればいいのに。私は時々想像する。スマホなんて存在しなかった世界線を。

 スマホが無かったら、どんなに有意義な時間を過ごせていただろうか。もっと勉強に時間を使えた。もっと太陽の下で身体を動かしていた。もっと友達と会話を楽しめた。SNSをやってなかったせいで、流行のノリについていけなかった、なんてこともなかったかもしれない。

 スマホが普及した。誰もが、SNS・検索エンジン・サブスクリプションを利用する。人間は常にスマホをみている。ひまであろうがなかろうが。社会に従属する個人として。人間の行動様式は画一的な方向へ向かっている…

 いや、インターネットが身近になったことで、様々な分野が近い存在になった。媒体が増え、コンテンツの幅も多種多様。自分の関心事をすぐ調べられるし、AIがオススメもしてくれる。文化や芸術の多様性は広がっていく…

 人間の思考、行動の幅は狭まったともいえるし、広がったともいえる。

 どっちやねん。

"人が状況の定義を投影して、暗黙のうちにもしくは明示的に自分は特定の種類の人間だと主張するとき、その人は自動的に他の人たちに道徳的な要求を行い、自分と同じ種類の人間が持つと考えられる権利に即して自分を評価し取り扱うようにかれらに義務づけている"   —ゴフマン

アーヴィング・ゴフマン『日常生活における自己呈示』中河伸俊・小島奈名子=訳 ちくま学芸文庫

 今回は前日譚として。今日もありがとうございました。


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