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ピッツァの日

イタリアのマルゲリータ王妃の誕生日にちなんで、凸版印刷とピザ協会が11月20日に記念日に制定した。

pizzaの語源は、ドイツだという人もあれば、ギリシャ語だという人もいる。
ともかくも、平べったいパンは地中海沿岸の国々で食べられ、さまざまな食材が載せられた。ピッツァの起源はイタリアではないとしても、こうしたパンが中世にもっとも発達したのはイタリアであった。

Ce plat italien remonterait à l'Antiquité tardive. Le mot « pizza » serait apparu en 997. Son origine est controversée : pour certains, le terme vient de l'allemand bizoo qui veut dire « morceau de pain », et pour d'autres, du grec pitta qui signifie « fouace, galette ».
Cette pâte plate ressemble, en effet, à de nombreux pains que l'on trouve encore aujourd'hui à travers les différents pays du bassin méditerranéen. Avec le temps et suivant les régions, ce « pain » s'est vu accompagné d'ingrédients. Il n'existe donc pas véritablement de ville d'origine de la pizza, mais c'est en Italie que celle-ci s'est développée au Moyen Âge.

イタリアで近代的なピッツァがはじめて食べられたのは1780年のことである。

C'est en 1780 que la première pizza d'Italie moderne voit le jour, la pizza Margherita (pain, tomates, fromage), faite par Raffaele Esposito en l'honneur de la reine Margherite qui appréciait beaucoup ses pizzas. Ce plat jusqu'alors mangé dans la rue acquiert alors ses lettres de noblesse, et n'a cessé depuis de se diversifier.

ことの発端は、北イタリアのサヴォイ国の王妃マルゲリータが、ナポリを訪ねたときのこと、(ちなみにナポリではトマトと水牛が豊富であった)ピザ屋が人気なのをみて、あれは何?とお尋ねになる。まるで目黒のさんまよろしく、ピッツァが食べたくなった王妃、料理長のガリカミーロを呼びつけてピザをつくれと言い出した。こまったガリカミーロはナポリのピッツァ屋のラファエレ・エスポジトにピッツァを献上しろと命令した。困惑しながらも、特製のピッツァを作り、マルゲリータ王妃に献上した。
 ラファエレが作ったピッツァは、王妃が感動し、お気に召したとわざわざ庶民に手紙まで書いたのだった。とんでもないグルメなピッツァだったのかと思いきや、とてもシンプル。トマトにモッツァレラそれにバジルの葉を載せたピッツァ。これに込められたのは、三色旗の赤・白・緑というわけである。愛国心のプレゼント、洗練されたピッツァの雰囲気と、素朴だけれどバランスのとれた味に、ラファエレの発想・機転と心が産んだ感動なのである。
 記号はシンプルな中にこそ、奥深いメッセージ性を込めることができ、この洗練は時代を超えて、いまにも伝わるのである。ラファエレ只者ではない。こうした記号に着目して日本を眺めた記号論者ロラン・バルトは、
「象徴の帝国」という日本論を残している。日本の伝統芸能”能”について、オペラと比較して、身振りは徹底して抑えられているそのわずかな動きの中に、あふれる生命力や悲しみが濃縮されていることを示した。
同様の理論には、参考記事:箸の日でも触れたので、興味ある人は目をとおしていただきたい。日本人である私達がともすると忘れてさえいる感性を、するどい観察眼で、あざやかなフランス語で記している。

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 ロラン・バルトは、カミュの「ペスト」に対し、(簡潔にいえば)歴史の欠如というものを感じていた。カミュの「ペスト」は戦時期にかかれたもので、書きたかった本当のことは、”独裁国家”と感染症との酷似である。独裁国家を叫ぶものは保菌者として、ほかの者を独裁主義者に変えていってしまう。また、逆に反独裁を叫ぶ者も悪との戦いに参加することにより、自らもまた悪になってしまう不条理なのだ。悪は無知に由来するという信念のもと、カミュは克明にその不条理を克服しようとしたと主張するが、バルトは鋭くもそこに”乗り越え”はなく、滅びゆく年代記に過ぎないといった。カミュ贔屓になってみれば、この批判はあたらず、全という意識からの逃避こそが、時間の因果関係から(抜け出さないと意味がないという歴史観から)開放された特権的瞬間にこそ生が宿るという反駁も考える余地はしかし充分にあるのであるが、それでは共同体がまさしく死との共同体になってしまう。
この世界が理性では割り切れないという諦観と、あくまでも人間の奥底に明晰を求める願望との唯一の絆がカミュにとっては、それが断絶状態であるからである。勝者を正しいとする歴史の裁きから人間の明晰が奪われていくことからどう抜け出すのか、もがいたカミュが悪のモラルに取り込まれてしまうことを鋭くもバルトが指摘したのだと、いまは捉えなおして考えることもできる。
 カミュは、「反抗的人間」でサルトルと論争し、「ペスト」でロラン・バルトと論争した。サルトルとの戦いは私にはカミュのほうが納得できると思うのだが、バルトとの戦いについては、なおも悩ましいと思っている。
これについては、別に書こうと思う。
 勝者が正しいとする論理からは人間は抜け出さなくてはならない。しかし、どのように乗り越えればいいのか、因果関係に支配された歴史の説明とは異なる仕方でいかに歴史を描くのか。これがカミュの課題であったが、いま感染症の脅威にさらされている世界に生きる我々が、まったなしで考えないといけない問題でもあるのだ。
 バタイユがいみじくも「反抗が不幸の法則の受容になり、絶え間ない敗北が勝利よりも意味があり、極端まで戦う者に聖性が与えられる」と「ペスト」を評した。
 生→死の繰り返しの中に、神秘性の瞬間の実現を無垢性が示す。それが外界とのしがらみの切り離しであった。カミュが書きたかったのはそうしたものではなかったか。
 極端まで戦うよりも、マルゲリータを献上したラファエレの機転が鮮やかに、そしてシンプルに困難を乗り越えていくように、断絶した新しい歴史を作っていけるような軽やかさこそ、いまは求められているのだと感じてしまうのは逃避であろうか。
この問題については、考え続けていきたい。

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<来年の宿題>
・進化するマルゲリータ
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中目黒「聖林館」のマルゲリータ



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