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節分の日

節分とは、24節気の前の日を指す。
豆を撒いて鬼を追い払うという行事は、やはり山人のことを指すという意見には納得させられる。

追儺は、中国の民間行事で、「論語」にもみえる。病気や悪霊を追い払う儀式である。いわゆる”浄め”の過激版のような大晦日の行事で、唐の時代になると宮中でもやるようになった。

为一种驱逐疫鬼的习俗,是中国最早的民俗,驱除病魔恶鬼的仪式。于节令变换之日举行。《论语》对此也有记载。周代时方相氏披熊皮镶黄金四眼,黑红衣装,手执戈盾,率百官以追恶鬼,或过程中以物品(米、豆、矢)丢掷恶鬼,以去除厄运。汉代时动辄动员持桃弓棘矢、头缠红巾之童子数百名,以奇怪的服装和动作驱除恶神,时间通常在农历十二月底,立春前一日。到了唐朝朝廷盛大举办追傩大典,成了长安新年活动。宋之后成游戏性质而渐失传,仅持锺馗像,燃鞭炮行之。

この追儺と中国の節気という考え方が同時に日本に伝わった。706年文武の頃に疫病が流行りたくさん人が死んだ。このため追儺式を行ったというのが最古の記録である。それが室町になると民間に伝わりマメをまいて鬼を追い払うこととなった。

追傩与中国的节气一同传入日本,文武天皇庆云三年(西元七○六)瘟疫流行,多人死亡,于是在该年十二月底以阴阳道之行事作土牛驱鬼,为最早之记录。从此成为日本朝廷之公事,于每年农历十二月底行之。阴阳师从月华门进入南殿旁读祭文,然后方相氏大喊打鬼之声,举戈击盾三次,群臣齐声驱鬼。恶鬼通常由大舍人扮任,此外在殿中的贵族们乃携桃弓苇矢以射鬼,鬼乃窜逃。此习俗之所以在除夕夜举行,乃由于和日本古传的大祓的观念结合所致。追傩在平安时代是固定的例行活动。室町时代融合古式追傩习俗广泛流传,成为民间撒豆驱鬼的节分习俗。但仍有以驱除恶运的仪式存在的寺院。在寺院中,以法隆寺和药师寺的驱鬼式最为有名

鰯の頭も信心かな、で知られる、柊に刺して玄関先にというのは、関東以西の民間で鬼を臭気で追い払うという風習である。これは日本の民間習俗で、たとえば、下北半島では次のような風習がある。

十四日の年越に、魚の鰭ひれ、魚の皮などをこがして餅とともに串に刺し、すべての入口、窓という窓に挿んで、それをやはりまたヤラクサと呼んでいた。つまり臭気ある物をもって、鬼を追い返そうという目的に出たのである。

柳田国男の「雪国の春」にこう見える。
鬼の出自は、忌み嫌うものを鬼というものであろうが、それが山に住むものの謂であることは想像に難くない。山で暮らす者と里で暮らすものとの諍いがあったのだろう。狩猟者と定住農耕者の対立と、そして邂逅的な物語が同じ柳田国男の「山の人生」にみえる。

山人の場合には二つの話が合体して、あまり毎晩餅ばかり食いにくるので、のちには閉口して白い丸石を囲炉裏に焼き知らぬ顔をして食わせて見ると、火焔を吹いて飛びだして去ったとか、またはその祟で大水が出たのが年代記にあるところの白髭水だなどと、いずれも皆一旦の好意とその後の不本意な、絶縁とを伝説する地方が多いのは、或いは何かこの方面の信仰の次々の変化を暗示するものではないかと思う

歳神との別れ難い思い出と、実在した山男とのコミュニケーションとが混じり合いながら、鬼が作られていった。正月に歳神を家に迎え、一年のエネルギーをもらうというのが正月の行事だが、やがては山に去っていくべきもので、これは別れ難いのである。それをあえて、追い払う者とする転換した。そこに鬼が登場するという構造なのである。

追儺式が、疫病の退治ということで、見えない敵に対して、実感をもって追い払いたいと思うのは人心の習いなのであろう。

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<来年の宿題>
・柳田国男のキーブック
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