見出し画像

国際移民の日

 今日は、国際移民の日である。2000年の国際総会で制定された国際デーのひとつである。移民問題が深刻化している欧米諸国を中心にシンポジウムなどが開催されている。移民については、デリケートな問題などといっている日本。どういうことなのか?朝鮮からたくさんの人を連れてきたからだと思う。それは自業自得だから、誠実に(といっても誠実すぎるとややこしい問題があるのは確かだが。。。)対応すればよい。それと、かつては移民に対して一部国民にアレルギーがあったにはあったが、この国際時代にそんなアレルギーを起こす方がおかしいのではないか。それはアナクロニズムなので、気にしないで良いと思う、とこう整理すれば、デリケートな問題ではないと思う。
 でもそれは、私個人の感想であるが、いみじくもサイードが次のようにいう。”知識人の心は故国喪失者(ディアスポラ)であるべきだ。” どこにも属さず、属すという発想自体に嫌悪を感じることこそ、知識人の反応なのだ。
 次に、この日は、源内忌である、つまり平賀源内の命日だ。多彩な知のエンターテイメントについて考える日である。彼の態度こそ、もしかするとディアスポラなのかもしれぬ。これは来年からこの日に考えよう。

-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

サイードの著作に”オリエンタズム”という名著がある。この題名には副題めいたものがついていて、”西洋が作った東洋”と書いてある。簡単に縮めていうと、西洋は東洋に偏見があるというのである。偏見とは、歴史的文脈を抜きに文化に内在する論理を無視して、ある制度や風俗を個別に取り上げてオリエントなるものとして、類型化することである。それは、異文化をめぐる認識論というよりも、むしろ歴史的な問題として、要はパワー問題として意義をもっているといえる。この著作はいろいろと物議を醸した。批判した急先鋒はバーナード・ルイスで、サイードの持つイスラム知識には欠陥があるということと、オリエントを中東、アラブ世界に還元してしまっているということ、さらには、政治的な視点と学問的な視点を混同してしまっているといった批判であった。しかし最後の批判こそ、サイードが言いたかったことでもあるのだ。サイードはミッシェル・フーコーのDiscours(言説)を下敷きにして、言説自体が、無意識に制度や権力と結びついていることをオリエンタリズムの中で主張し例証してみせ、政治と学問の隠蔽された構造的共犯関係があるのだと主張したのである。平板にこう書いてしまったが、それは仕方のないことのように感じもする。どうしても異文化を眺めて見るときに”十把一絡げ”にしてしまわないと認識がうまくいかない。すべてにおいて歴史的考察をして組み上げていくのは難儀な作業であり、そもそも同化してしまっては異文化とはみなされない。
なお、ここでいう東洋というのは、アラブ=イスラム社会のことを指す。これは、日本にいる私達にはちょっとわからないような複雑なものを内包しているのである。そのことについて、サイードは次のように書いている。

La position des Américains n’est pas tout à fait la même : pour eux, l’Orient a des chances d’être associé bien plutôt à l’Extrême-Orient (Chine et Japon pour l’essentiel). Pour leur part, les Français et les Anglais – et, dans une moindre mesure, les Allemands, les Russes, les Portugais, les Italiens et les Suisses – possèdent une longue tradition de ce que j’appellerai l’orientalisme, qui est une manière particulière de s’arranger avec l’Orient fondée sur la place particulière que celui-ci tient dans l’expérience de l’Europe occidentale

 では、ジャポニスムはどうなんだというと、サイードはわざと脇においているのである。ただ、一般にジャポニスムというのは、まったく幸せな受容を示しているという。政治的な干渉なしに、西洋は日本的なるものをほとんど屈託なく受け入れ、日本もまったく無垢にその受容を眺めていたといえよう。たとえば、江戸の版画は、そのままマテリアルとして西洋に紹介されている。しかしながら、はたして誤解がないかというとそうでもないであろう。やはりここにも異文化であるがゆえの強張りや偏見は感じることができるのであるが、そんな枝葉を追求することの出口はどこであろうか。

La réflexion et l’action ont eu lieu dans les deux sens. L’art japonais s’est occidentalisé, tandis que l’art français et l’art anglais se sont japonisés. Si l’Europe a pu effectivement orientaliser l’Orient, comme l’affirme Said, elle a aussi fait prendre conscience au Japon de l’importance d’un certain nombre d’éléments de son patrimoine qui auraient été autrement considérés comme sans valeur. Ce fut le cas par exemple des estampes d’Edo. À cet égard, le japonisme, en tant que mouvement occidental, a redéfini les domaines d’excellence artistique du Japon, et restructuré une partie de son patrimoine culturel, mais on ne peut y discerner une attaque, ou une oblitération de l’être humain, car, si des connaissances précises existaient déjà, à travers les relations d’écrivains voyageurs, les premiers collectionneurs d’estampes et amateurs d’art japonais admiraient une production humaine en soi, sans disposer même d’informations précises sur leur mode de fabrication, ni sur leur sens. Il est vrai que le choix des estampes a pu se porter sur tel ou tel motif, ou privilégier une thématique, par exemple, celle de la femme élégante, ou la geisha, ou encore les estampes érotiques, dites shunga, et rejoindre parfois certains choix de la peinture orientaliste, mais ces sujets étaient natifs, et appréciés par les Japonais eux-mêmes. Ils n’étaient pas imposés de l’extérieur. Par contre, la sélection le fut. Il est certain que le choc visuel et esthétique des estampes a été déterminant pour la perception générale des Japonais et dans le développement de stéréotypes à leur sujet, notamment ce choc eut pour conséquence une féminisation et une érotisation de l’Autre oriental 

ところで、日本が東洋というときには、どういった感覚であるのか。そこには、サイードのオリエンタリズムをまた感じるのではないだろうか。まずは西洋というものの役割を朝鮮に押し付けたのではないだろうか。遣隋使や遣唐使をつかって偉大な国の力を使って国を治めようとしたのである。清盛は宋と交易して力をつけようとし、足利義満は明の臣下になろうとしたが、実は朝鮮出兵からこの方、変容してしまったように感じる。このことに関してはまた論じよう。移民の問題を考えるときに”オリエンタリズム”の日本での捉え直しは必須であるように思われる。

-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

紅毛人(オランダ人のこと)に異常に興味をもった平賀源内は、オランダ語は皆目わからず、通訳を通して文化をどんどん受容していった。晩年は人を殺し獄に入る。その獄中で破傷風にかかり死亡した。それが12月18日のこととされる。紅毛人に興味があったのは源内だけではない。

”紅毛の登城に蝿のついてきて”
”紅毛の鼻を噛んでも人だかり”

など、オランダ人を江戸をはじめとする庶民が物珍しそうに眺めていた様子が伺える。源内の死後、弟子の司馬江漢は、引き続き長崎屋に出入りして欧文化を吸収し続けたのである。

この記事の冒頭に書いたことを覆すが、そんなに簡単なことではないし、想念と深く結びついてもいるし、そうしたアナクロニズムの人に対してもどうしてそうなるのか考えないといけないのであろう。今日は、日本に来たるさまざまな国の人々について想像力を使う日なのであろうが、まだ私は勉強不足なのである。

------------------------------------------------
<来年の宿題>
・「江戸の想像力」田中優子 再読
・「戦争とプロパガンダ」サイード ☆
・源内忌
------------------------------------------------
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
●見出しの画像
平賀源内 (画像はお借りしました)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?