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そばの日

10月は新そばの季節。東京都麺類生活衛生同業組合が10月8日に記念日を制定。なぜ8日なのかは語呂合わせということだが、私にはなぜかわからない。

大田南畝の名文「蕎麦の記」があるので、今日はそれを引用してみよう。

それ蕎麦は、もと麦の類(たぐい)にはあらねど、食料にあつる故に麦ということ、加古川ならぬ本草綱目にみえたり。
さればてうとのめでたき天河屋が手並みをみせしこと、忠臣蔵に詳らかなり。もころしにては一名を烏麦といい、そば切りを河漏麺というは、河漏津にあるゆえなりと、片便の説なり。

確かに小麦などの麦はイネ科である、蕎麦の原料はタデ科の植物であるので、麦の名前がついているのはおかしい。加古川ならぬは、仮名手本忠臣蔵の加古川本蔵とかけたもの。
天河屋とは、天河屋義平のこと、商人で赤穂浪士討ち入りの武具を用立てたという「せめて手打ちのそば切りを」「おお、手打ちとは吉兆」というセリフがあり、歌川広重が描く忠臣蔵十段目に義平が登場し背景には担ぎ蕎麦屋が描かれている。

詩経には爾(じ)を視るにきょうのごとしといい、白楽天が蕎花白如雪といいしも、やがてみよ棒くらわせんの花の事なり。大阪の砂場そばは、店の広きのみにして、木曽の寝覚は醤油に事欠きたり。一の谷の敦盛そばは熊谷ぶっかけ、平山の平じいもおかし。

白楽天の「村夜」という詩にある。月明蕎花白如雪(月明らかにして蕎麥の花雪のごとし)という文言から。「やがてみよ棒くわわせん蕎麦の花」という宗因の句 類句に「お手討ちになるとは知らで蕎麦の花」というのがある。砂場は東京の老舗を想起するが、ルーツはなんと意外にも大阪の蕎麦屋である。しかも系がふたつあり、和泉屋系と津の国屋系。夜の経営権を和泉屋が譲った美談があるという。寛延年間(1748〜58)に大阪砂場として、江戸薬研堀にOPEN。どちらの系かは不明だ。茅場町砂場は実は藪のルーツでもあるらしいと並木の藪の先代が話ししているという。一の谷〜は敦盛が熊谷次郎直実に討たれた悲劇が平家物語にある。一の谷には敦盛蕎麦を名物にした蕎麦屋があり、熱盛りだか厚盛り(大盛り)だかをかけているのだという。熊谷直実と平山季重との源平の先陣争いにちなむ故事で、ぶっかけの駆けと平じいの平盛と・・・地口が激しすぎてもう私の理解の範疇を超える。

大江戸のいにしえ、元禄より上つかたは、見頓蕎麦は浅草のみありて、むしそばの値七文なりとききしが、今は本町一丁目駿河町にもまぢかくありて、御膳百文、二八、二六、船きり、らん切、いも切、卓袱、大名けんどんはいざしらず、うば玉の夜蕎麦風鈴にいたるまで、いずれかみごとのたねあらざる。

見頓=慳貪というのは山崎美成の説。曲亭馬琴は巻飩だといった。日本橋瀬戸物町にあった「信濃屋」の主(あるじ)が突っ慳貪(つっけんどん)であったからこう呼ばれたといったり、寛文年間ごろ吉原のあったそば屋の「けんどんそば切り」が評判になったので、そう呼ばれるようになったとか諸説。ちなみに蕎麦はこの当時は蒸し上げた蕎麦を蒸して出していたらしい。
「衣食住記」には、「亨保の頃、温飩蕎麦切り、菓子屋へ誂え、船切にしてとりよせたり、その後、麹町ひょうたんやなどいうけんどんや出来、蕎麦切りゆで紅から塗りの桶に入れ、汁を徳利に入れて添い来たる、その後亨保半ば頃、神田辺りにて二八即座けんどんという看板を出す」とある。
二八という言葉が亨保年間でうまれたことはわかるが、それが小麦粉と蕎麦の配合を表すのか、16文という値段を表すのかは定かでない。大田南畝の文に二六とみえるので、おそらくは配合でなく金額のことと類推するが、いずれも安い蕎麦だよというのを表す。生蕎麦というのは、この安い蕎麦との差別化でできた言葉で、100%そば粉を使ったわけではない。というのも江戸では100%蕎麦粉を使った今日もてはやされているような蕎麦は、田舎臭いといって嫌われていたからである。
 このあと、南畝の筆は、当時の名店、高砂の翁そばや、深川の洲崎のざるそば、深大寺そばなどを挙げる。

吉原遊郭と蕎麦はきっても切れない関係であるが、みの屋という名店があり、山東京伝は、「客衆肝胆鏡」の中で、吉原の名物として
「上餡 巻せんべい、蛇の目寿司、甘露梅、アンネイ湯、平二そば、みのやのそば、山屋、尾張屋の豆腐」を挙げる。

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蕎麦の実を乾燥し、脱穀する、このときにそば殻が出てくる、それを取り除いたものを丸抜きという。この丸抜きを石臼にいれてすりつぶして篩にかけるのであるが、一番最初に花粉が出てくる。この段階で上割れが残っていてこれをさらに石臼でひくと一番粉が出てくる・・・といった具合に順次篩に残っているものを石臼にかける作業を繰り返すのである。この一番粉を使ったのが更科蕎麦で、長野の千曲周辺が蕎麦の名産地でこの更級に因んでこのように呼ばれたという。麻布永坂の「更科」の屋号は木の繊維を水で晒して布を織り、信濃布として流通したことから布屋太兵衛が布の材料の「科(しな)」の木から拝借したという説がある。

ここで、過去ブログを引用しよう

柿も蕎麦も栄養価が高い食品であるものの
いっしょに食べると体が冷えることから
食べ合わせはよくないとされる
実はカリウムに利尿作用があり、
蕎麦と柿の両方に含まれていることで
いっしょに食べると下痢になることもあるから
そういった戒めが残るのであろう
今日は、柿の日だという
正岡子規が
「柿食えば 鐘が鳴るなり法隆寺」
と詠んだのが10月26日だという
明治28年のことである

子規は蕎麦が好きだったかというと
おそらく好きだったのであろう
”酒のあらたならんよりは蕎麦のあらたなれ”
と詠んでいるくらいだから。

浅学な私は、子規の句界における影響はわからないが
芭蕉の解釈学を鋭敏な感覚で推し進め
与謝野蕪村を発掘した功績はやはりすごいと思う
2年ほど前には、
小林一茶を高評価する原稿が発見されたという
長野を旅した子規が
”木曽近し蕎麦と直白の山続”
と詠んでいる
一茶も
”しなの路やそばの白さもぞっとする”
という句があり
似たようなことに共鳴する感覚と
それを一掬の絵のように残す絵画性は
相通ずるところがあるのであろう
長野は田舎蕎麦もたしかに有名だが
更級という蕎麦の名所があり
子規は
”蕎麦屋出て永坂上る寒さかな”
麻布の永坂更科の蕎麦屋のことを描いている。
そういえば昨今
大勝軒の暖簾騒動が話題となったが
実はこの更科の名前を巡って
7代目 布屋太兵衛と
8代目 馬場繁太郎の間で暖簾騒動になった
そば殻を外して真っ白な蕎麦を供する更科
その技術や手間が本文であって名前はどうでもというところであるが
商いとしてはそうはいかないのであろう

「柿」はこけらとも読むが
そういう蕎麦屋が船橋にある
船橋 滝不動 柿(こけら)
こっちは老舗とは正反対
いわゆるアマチュア出身の粋高しお店で
住宅街にあり、看板すらないという
喉越しというより、蕎麦の香りを供するお店だときく
探すのが大変だが
ぶらりと訪ねてみたい

余談だが
子規の句の鐘は実は
法隆寺でなく東大寺の鐘の音であるという
名ではなく実を楽しむというのも
一興であろう
そして、その逆も愉しみたい
強欲な自分を蕎麦つゆの中にみつけることがある
まぁ答えは藪の中ということであろうか

藪蕎麦の蕎麦は形式を味わう。更科は白さを味わう。蕎麦は江戸のフォルマリズムの美学をよく体現した食べ物といえよう。

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<来年の宿題>
・ガレットについて
・遊郭と蕎麦
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●見出しの画像
総本家更科堀井 本店の蕎麦。見事な真っ白な蕎麦だ。

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