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寒天の日

NHKテレビが2007年2月16日に放送の中で寒天を取り上げたのをきっかけに、寒天が大ブームとなったことを記念し長野県寒天加工業協同組合などが記念日を制定。

おっと、うっかり局の名前を出してしまった。本来は某局と書かなければならないのだろう。国営だからいいという人もいるだろうが、僕にはその理屈がいまいちわからない。せめて番組の名前は伏せておこう。なぜなら寒天がブームになったのはダイエット法だということである。私が危惧するのは、国営放送がきっかけでダイエット法が流行るということに、民法某局がいうよりもきな臭いものを感じる。国営放送が言ったのだからと真に受ける人がいやしないかとことさらに権威をもった情報だと強調する人が出てくるのではないかと心配してしまうのである。(よもや、そんな人はいないのかもしれないが・・・杞憂であることを祈る)

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寒天発明の起源については、明暦年間、薩摩藩主の参勤交代の途次、今の京都府の伏見の駅御駕籠町美濃屋太郎左衛門の家に一泊した際のことであるとされる。
寒天は心太(ところてん)と同じ海藻、天草を材料としている。芭蕉は

清滝の水吸い寄せてところてん

と詠んでいる。夏にふさわしい風物詩で、与謝蕪村も”ところてん逆しまに銀河三千丈”と詠む。
心太が中国発祥でありその製法が日本に伝わった。もともと凝海草といったのを「和名抄」という日本初の漢和辞典には、

俗用心太二字云古々呂布止

とあり、1000年の歴史をもっているのに対し、寒天は江戸時代というわけである。
夏の風物の心太をどうして冬に供しようとしたのかはわからないが、とにかく美濃屋の家では、薩摩藩主島津大隅守をもてなすのに心太を出そうとしたのである。厳寒のせいで、凍結したものを試しに溶解してみると心太よりも海藻の臭気の抜けた美味のものが得られたのである。
ただ、このときには、寒天という名にはなっておらなかったが、1654年に黄檗宗万福寺の高僧隠元が、これを試食した際に寒天と名付けたということである。

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ところで、この日を制定したのは長野県の組合である。現在寒天の産地としては、信州寒天、岐阜寒天、関西寒天が挙げられるが、このうち信州、すなわち長野県で製造がはじまったのは、天保年間のことだという。なんでも子ノ神新田の白川萬蔵の曾孫白川元一所蔵の古文書に「萬日記覚帳」があり、最初の記録だということである。
これいは、どうやって原料である天草を諏訪まで運び込むか書いてある。子ノ神新田を出発し、甲州台ケ原、鰍沢を通って、富士川を舟でくだり、いまの静岡県吉原を通って、沼津にでて、天城峠を超えて下田港まで仕入れに行っている様子が書かれている。当時は天草の集荷・商取引は下田港と江戸の商人が握っていたのだという。
帰りはというと、富士川を遡って鰍沢までいったというのだが、これがよくわからない。
 なぜ長野県で発達したのかというと、天候が要因だろうとのことだ。
冬季の晴天日数が本州最大で製造期間が40から50日と比較的長いこと、冬季の気温と湿度が低く冬の農家の余業として喜ばれ、人手も得やすかったという。

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寒天は、低カロリーなうえに食物繊維も豊富で、ダイエットにはピッタリだそうだ。
ブームになったのは、2007年のことであるが、その後は売上が元にもどって価格も下がっている。というのも、ブームの際には国内の材料だけでは足らず輸入に頼ったが、粗悪品が多く、ブームが去ると在庫を抱えたので、これを叩き売ったのだ。長野の地元からは、ブームは迷惑だといわれる始末なのである。こういうとき国営放送局の罪は重いのだから、やはり、局名は伏せるべきである。国営ならいいというのであれば、こう書こう。NHKのせいで長野県に迷惑をかけたということである。

 ここまで書いて、ん?って思う。いくらブームだといって求められても、輸入までして増産せずに、値段を上げればよいという発想はないのだろうか。。。もしも万が一、販売会社やら何やらが増産を強要したのであれば、なにかの構造がおかしいのだ。

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<来年の宿題>
・ブームと生産について
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