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海外旅行の日

海外旅行は海を越えて遠くへ行くことから{とお(10)くへい(1)く(9)}の語呂合わせで旅行会社や海外旅行愛好家が10月19日に記念日を制定

私の誕生日である。というわけで、自己紹介記事を更新した。

 私が就職した会社は、海外旅行に行くといったら、上司に白い目でみられるような会社だった。いまでは、そんなことはないかもしれない。なにしろ30年以上も前の話だ。見聞を広げるのに、これ以上はないのに・・・。そもそも内定者の集まりにもフランスにいっているので出られませんって言ったら、実家まで電話がかかってきた。今思うと気が遠くなるほど感性が合わない会社に就職を決めてしまったものだった。OLはともかく上司は海外アレルギーをもっていたようだ。結局その会社で6年ほどお世話になり、転職した。
最近になって、ホリエモンの「あり金は全て使え」という本を読んで、共感したりしているのだが、まさに私は、初ボーナスをすべてはたいて、中国へ旅行にいって、有休もすべて使い、帰国後さらに旅の疲れか食べたものが悪かったのか蕁麻疹が出て、さらに会社を休んで顰蹙をかったものだった。

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 私の海外への憧れは、やはりテレビと歌謡曲である。
圧倒的なのは、”料理天国”という番組である。芳村真理が”どーもー”といい、小川シェフがフランス料理を披露し、元力士の龍虎が食べるあの・・・(知らない人はいいです 笑)番組で、すっかりフランス料理に魅せられてしまった。のちにフランス文学なんて専攻するのももしかしたら、この番組のせいかもしれない、あるいは、「天皇の料理番」の秋山徳蔵がホテル・リッツでの修行するシーンが印象に残っているのかもしれない。

ここで、過去ブログを引用しておこう。2009年3月12日の記事である。

「チューボーですよ」の巨匠
堺正章は、歌手であるが
世代的に自分は、多彩な人という印象が強い
コメディアンであり、俳優であり
「かくし芸大会の大御所」で
なんでも器用にこなすという印象なのである

自分の小学生時代に、「西遊記」をドラマ化して
放送していたが、キャストは夏目雅子が三蔵法師で
堺正章は孫悟空の役であった
如意棒を非常にうまく操っていたのを記憶している
主題歌は、ゴダイゴが歌っていた

「天皇の料理番」というドラマがあった
1980年だという(自分は12歳)
西洋料理に目覚め上京し、
天皇の料理番まで出世する秋山徳蔵という主人公
を堺正章が演じた

幼少に食べた 「カツレツ」が
目覚めのきっかけであった
カツレツは、洋食であるが
とんかつは和食に分類される

カツレツは、フライにする料理法でなく
衣はつけるがフライパンで両面を焼く
では、日本風にフライのようにするのは
どこが始めたのだろう

上野御三家といえば「蓬莱屋」が
ヒレカツをはじめた店だとはきく
浅草の老舗 多津美では、
揚げたあとオーブンに入れる

肉は厚いほど調理法は難しい
「ミスター味っ子」という漫画では
分厚い肉を 低温と高温で2度揚げする
という調理法で克服していたが

大衆食堂でこれをやると やたらコストがかかる
雁屋 哲の小説
「美味しんぼ探偵局」の中で
大東が 大衆食堂の
うすいトンカツを絶賛している場面がある。

上野御三家の「ぽん多」は
低温の油でじっくりと時間をかけて揚げる
仕上げに高温でカラッとさせる
待たされて怒るのはここでも野暮らしい

このカツレツに憧れた秋山徳蔵のような気持ちで、
テレビ番組をみていたのであろう・・・

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 歌謡曲では、先ごろ亡くなった筒美京平さんが作曲した「魅せられて」は異国情緒たっぷりであった。さらに、庄野真代の「飛んでイスタンブール」。どこだよイスタンブールって・・・と目を白黒しながら流れてくる曲にロマンを感じたり、久保田早紀の「異邦人」のイントロにトルコあたりの情景を目に浮かべていたのである。切々と、”ちょっと振り向いてみただけ”という”異邦人”は、どんなライフスタイルなんだろう。どんなジゴロなんだ?みたいな疑問をいだきながら、おりしも、ゴダイゴが「ガンダーラ」や「カトマンドゥ」や「モンキーマジック」を唄うのをきいてすっかり翻弄され、とどめのように喜多郎がシンセサイザーで「シルクロード」という番組のテーマを奏でられては、もう莫高窟にいくしかないだろう、となるではないか・・・(ならないか・・・)
 母の姉がカセットテープを私にくれた。ほとんどジャズである。こんな高尚な世界があるのかと悦にいっていると、カセットの中に美空ひばりの曲を録音したものも混じっていた。「ひばりのマドロスさん」「港町十三番地」こうした曲から、マドロスってなんだろう。。。港はそうか、海外へつながっていて、親たちの世代から海外の憧れはつながっているんだと確信した。「憧れのハワイ航路」(岡晴夫)の訳(わけ)みたいな空気を多感な時期に感じ取って海外への眼差しの正当化をしたのであろう。ちなみにカセットテープには美空ひばりだけでなく、エト邦枝の「カスパの女」や渡辺はま子の「桑港のチャイナ街」も入っていた。カセットテープのト書きに丁寧な字でそう書いてあったが、カスパって何だ?桑港はそうかサンフランシスコのことなのか・・・図書館の国語辞典で調べてみた記憶があるが、カスパはいまだに謎のままだ。しかしながら歌謡曲は異国情緒への港なのだ。
そういった海外熱が私に伝染り、熱に冒されながら、「なるほどザ・ワールド」や「世界まるごとHowマッチ」というクイズ番組では海外の映像が垂れ流されていたのを指を咥えてみていた。

 それと、やはり本である。沢木耕太郎の「深夜特急」を部屋に閉じこもって一気に読んだ。すっかりバックパッカーへの憧れが心に巣食ったのだ。卒業旅行はフランスに1ヶ月近く滞在するのは、この本の影響がやはり大きいのである。雑誌だってそうである。JTBやTVムックなどで、東南アジアへの旅の特集が組まれていたのを書店で立ち読みしたりするうちに、憧れはどんどん心に降り積もってしまった。

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今日はフィチーノ(マルシリオ・フィチーノ)の誕生日である。
ルネサンス期の時代に、メディチ家から「知の殿堂」を作れと全面委託された人物である。フィチーノはプラトンをラテン語にしたりして、知の殿堂の基礎を古典主義で組み上げていった。
人間の五感が何を感じ取るのか、それをミクロコスモスとし、マクロコスモスと呼応する装置とみなし、森羅万象を象るものとして説明するのである。フィチーノは医師であったので、五感について、見識が深かった、古典主義の堅牢な基礎を五感をもとに再構築をこころみるのだった。

Historiquement, les cinq sens sont, depuis le traité De Anima d’Aristote, un objet d’étude et une source de questionnement pour les philosophes qui s’interrogent sur le rôle qu’ils jouent dans la constitution de l’homme et dans l’appréhension qu’il a du monde. Au Moyen Âge et à la Renaissance, en effet, l’homme est pensé comme un microcosme qui est en relation avec le macrocosme, les sens faisant office de « trait d’union » (Charles de Bovelles). Les cinq sens ont ainsi un rôle fondamental dans le couple structurant l’anthropologie médiévale et renaissante – corps et âme. C’est pourquoi ils sont à la source de nombreuses productions, qu’elles soient artistiques (la tapisserie de la Dame à la Licorne), scientifiques (le De Sensu de Charles de Bovelles, La Vision de Dieu de Nicolas de Cues), morales (Les Confessions de Saint Augustin, La Nef des folles selon les cinq sens de Nature de Jean Drouyn) ou dramatiques (Le Cœur et les cinq sens écoliers de Jean Gerson).

フィチーノは五感のうちの目と耳を用いて神に近づき、嗅覚、触覚、味覚を使って動物に近づいたのである。

Toutefois, la vue, l’ouïe, l’odorat, le toucher et le goût ne sont pas mis sur un pied d’égalité. Depuis Aristote jusqu’au débat que les philosophes platoniciens et néo-platoniciens ̶ comme indiqué par Marsile Ficin dans son Commentaire du Banquet de Platon ̶ont institué entre les cinq sens, deux sens – la vue et l'ouïe – sont considérés comme des agents de l’âme et par là même comme nettement supérieurs aux trois autres sens. La raison avancée est que le corps humain peut atteindre le divin au moyen des deux premiers alors que les trois derniers le rapprochent de l’animalité. Au-delà de cette question épistémologique, il importe également de souligner que si la linguistique accorde depuis longtemps une place importante à l’étude des liens entre la signification et la sensorialité, l’odorat, le goût et le toucher ont souvent été négligés dans l’étude des arts et des textes littéraires.

わたしもかくして、かくように、耳でジャズや歌謡曲を聴き、深夜特急を読んだり、クイズ番組を見ては、海外への誘いを感じ取ったのである。
西遊記をみて中国へ行きたがり、料理天国をみてフランスへ行きたくなったのだ。国鉄のディスカバリー・ジャパンなんて、及びじゃなかったわけである。

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<来年の宿題>
フィチーノとバイオリン
・ルネサンス期の思想とピコ・デラ・ミランドラ☆
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●見出しの画像
テレビドラマ「西遊記」の三蔵法師役の夏目雅子
(画像はお借りしました)


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