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小正月

京都半衿風呂敷和装卸協同組合が記念日に制定している。
かつては成人式が1月15日に開催されていて、「襟を正す」意味合いがあるという。

今日はプルードンの誕生日である。
アナーキストとして知られ、その思想はフランスでは今でも人気がある。
プルードンが批判したのは、国家だけでない。権力と癒着のみられる宗教をも痛烈に批判した。プルードンの深い思慮は、国家と宗教をつなぐ権力を見通していたのである。
宗教も純粋なままであれば、私的なものである。個人と神との関係である。しかし、教会がもたらす構造の中で家父長主義みたいなものを植え付けていく。国家は公的権力として維持される一方で私的財産を認めていく。その構造も教会の持つヒエラルキー構造を政府を構成する構造に置き換えただけである。教会は家父長性を認める見返りに、私的財産を保証する見返りに権力を得たのである。私的財産なんて、”アダムが耕しイヴが紡いだとき”にはなかったものである。所詮は社会的なものである。私的財産は、平等を産まない。それを、機会の平等とすり替えるのである。だから自由だと・・・
それは、権力がみずからを擁護するために生んだでっちあげにすぎない。
だからこそ、プルードンはこう考えた。公的財産というものはできないのかと・・・
 ルソーは無神論者のくせに故郷(ジュネーブ)の教会を擁護して批判され、宗教は人間の欲望なのだといった。同じく無神論者のディドロは、百科全書の記事が、教会によって発禁処分を受け投獄された。このときに、ソクラテスの弁明を読み、ネロに殺されたセネカについて”セネカ論”を書く。ソクラテスをセネカが復権させたように、セネカを私が復権させる。そしていつの日か(この投獄されている)わたしディドロを復権させてくれる人物がきっと現れるだろうとしている。

キリスト教徒にとって救済の根拠は、神であり、最後の審判が救済の時である。しかし、無神論者のディドロは、神、あるいはキリストを、やがて歴史の中に現れてくるのであろう審判者と組み換え、それによって自分の思想を再構築する、そしてそこに認められるのは、信仰の構造なのである。

つまり、ディドロがもっているこの復権の構造こそキリストによる救済そのものであった。無神論者であるはずのディドロでさえ宗教の構造を持つのである。しかし、プルードンの持つアソシアシオンもまた、教会のもつ慈愛の構造でもある。プルードンの夢描いていた未来はまだまだ遠い。。。

spiral

ジョン・コルトレーンの
Giant Steps というアルバムに入っている。
このGiant Steps
ジャズの歴史の中で重要なアルバムのひとつである
ハードバップからの脱却をはかっているという。

Si Kind of Blue ouvre les portes du jazz modal 
(c'est-à-dire libère l'improvisateur de la grille d'accords), 
Giant Steps "tue" le be bop en le portant à un degré de complexité 
jusqu'alors inégalé, en particulier pour les titres Giant Steps ou 
Countdown.

このアルバムは
独自だ、コルトレーンが
実験をしてる
Giant Steps est un album unique dans l'histoire du jazz. 
D'une part parce que Coltrane ne poussera pas plus loin l'expérience,
 sentant sans doute que le genre trouverait rapidement ses limites. 
D'autre part parce que, malgré ses défauts,
l'album n'en reste pas moins fascinant

実験的な要素があるにもかかわらず
魅力が下がっていないという評価だ。

spiral
この言葉をきくといつもある小説を思い出す。
白鯨だ
白鯨に挑戦したモービーディック
自分には、
その無限の渦巻きの外側に立っていたい
という思いがある。
常にそんなことを思う。
永劫回帰の渦巻きからの離脱
しかし、それでも
自分が物語の中になにかを閉じ込めないといけない
という欲求もあるが少々疲れてきたのだ。
今すぐに外側に飛び出したい
と思うがいつも太平洋のど真ん中といったのは
白鯨を評したDHロレンスの言葉

突飛なことを書くと、
これは仏教の言葉でいうと
解脱であろう。
濁世では幸福はないという。
モービーディックは
白鯨に対決を挑んだのは
実はこれである。

仏教の諸行無常への挑戦、
挑戦がおこがましければ抵抗である。

この抵抗のため、
私は自分の存在理由を、
でっち上げる
楽しみを人々に与えなければならない
だから書くんだ。と
コルトレーンを聴きながら
そんな思いがよぎった。
聴きながら渦巻きに飲み込まれていくような
息苦しさを覚え、やがて、、
いや、それとほとんど同時に
リズムの中に溶け込む自分を感じる
渦巻きの中で溶解と抗いの両方が成り立つ場がある
いますぐ抜け出せるんだ
この渦巻きの中でも。

だいぶ酔ってきた。
特別につくってもらったカクテル
白鯨という焼酎を
カルピスで割ったものだ。
人に楽しみを提案するからには
自分が楽しまないと、、、
今日は早いがそろそろ
退散しよう・・・・

社会の本質は、矛盾である。その矛盾に立ち向かうことは、モビィ・ディックに立ち向かうエイハブのように、矛盾の渦巻の中に飲み込まれてしまう。

プルードンは心臓肥大のために、1865年1月19日息を引き取る。誇るべき無私の思想を携え、清貧として活き続けた。貧者として死にたい、生前はそうも言っていた。いつの日か誤解の多いこの偉大で清貧な思想家が復権されるであろう。

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資本主義はその機能麻痺に陥っている。植民地がもはやないからだ。この危機に直面しているなか、既得権益の壁がやはり大きい。どんな心持ちで、このモビィ・ディックに挑めばよいのか・・・バブルでない、穏やかな海はできるのか。

柳田国男は、小正月のことを次のように書いている。

小正月というのは家々の正月、すなわち以前の正月という意味らしく、奥羽から越後などは一般に十五日をそういっている。この日を花正月というのは関東の各地、対馬つしまでこれをまたモドリ正月カエリ正月ともいうのは、立返ってもう一度の正月ということであろう。実際またこの日を元日よりも大事にして、いろいろの忘れ難い行事を、今でも満月の頃に集注している村は決して稀でない。

三賀日よりもこの日を大事にするのは、満月が必要である。
太陽の力は、力強いが矛盾が多い。やはり月の優しさが必要なのである。

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<来年の宿題>
・ブロックチェーンとプルードン
・月について
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