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雛まつり

雛まつりの起源について、上巳の節句の行事が日本に伝わってきた。
すでに、ちらし寿司の日で触れている。曲水の宴が日本の貴族に伝わったのである。
 この宴のもとは、そもそも禊(みそぎ)の式であった。厄難を水で洗い流そうとしたのである。室町時代に水で洗い流すそれが酒坏(さかづき)を流すようになって日本に伝わってきた。時代はくだり江戸時代になると、人形(ひとがた)を流すように変質したのである。その雛人形については、少しく納豆の日で触れている。

日本平安时代受到中国唐朝上巳节(三月三)的“送厄船”和“曲水流觞”的风俗影响,人们用纸做成人形状,表示自己身体不适便转移到人形上,然后放入河流走。1544年的日本文献上已经有记载关于三月份庆祝节日的情况,但并未提及女儿节,只提及了桃花酒、艾草粘糕等,直到1629年才开始出现在皇宫内,到17世纪后半才开始在坊间流行起来。现在日本有些地方还保持这种女儿节习俗,在当晚把各式各样的人形娃娃随着河里漂流,祈求健康、平安。


 貴族の間で流行ったのは、行事の中でも上層の宴の趣向という酒坏を流して句を読もうみたいな行事であった。しかし、江戸時代にも禊の意味が保たれているということは、この行事の通底にある本来の行事の意味も伝わっているということである。
文化の伝播において、形式や振る舞いのみが伝わって変容したという様相を呈することがあれど、その本来の意味が伝わっているのは稀ではなかろうか、、、つまりは伝えたとしたら中国の曲水の宴とともに、それが本来は禊の意味を持っていることもまるごと伝わってないといけない。最初からまるごとだったのかどうか・・・。
 折口信夫は、旧暦の3月3日は潮の満ちひきが激しい。なので、海水は遠くまで干く。災いを遠くに流す。これが雛人形を遠くに流すことにつながり雛まつりの始まりであると言っている。加えて柳田国男も、毎年3月上旬は物忌をして、禊をして穢を祓う必要があったのであろう。そのときの形代、そして人形をつくり穢れを人形に移して流す習わしがあったとして、鳥取の流し雛の行事を例証するのである。
 この2人の民俗学の大家が本来の意味とこの雛まつりの結びつきを語るのをきくと、もしかしたら、意味は昔から日本にもあり、それがたまたま振る舞いの表層だけが中国から伝わったり、日本で変容したという考え方もできるのではないかと思うのである。
 さらに疑問なのは、穢をひな人形に移したのなら、雛壇にして飾ってはいけないのではないかというのが一点、もう一点は、新暦でやってはいけないのではないか、ということである。

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ともあれ、上巳の節句にこんなのも詠まれている

世間禊事風流處,鏡裏雲山若畫屏。
今日會稽王內史,好將賓客醉蘭亭。

24節気になぞらえ、宮中にて行われる行事では、時代を経つにふれ、流行り廃りがあるのである。上巳の節句よりも清明節や寒食の方が尊ばれてしまった。上の詩を読んだ鮑溶は、蘭亭序が書かれた頃を偲んで詠んでいるのである。

このようにみていくと、中国で禊祓いの行事があり曲水の宴となって日本に伝わった、日本ではさらに禊の意味を込めて人形流しになった。これがひな人形で、次第に流すスタイルが家に安置するスタイルとなり、豪華になって今に伝わっているということになる。
置き場所にも困る雛壇とひな人形を流していた時代を偲んで詠む人はいるのだろうか。。。おそらく宮中への憧れが別の流れであり、それが形になって習合したのであろう。

そまつなりぎょうれんまいかく二八そば

江戸時代には、雛納め(つまりは3月4日)に蕎麦を食べることが習慣づいていた。”樟脳をそばの次手(ついで)に買いにやり”なんて句も残されている。引用の句は、蕎麦のせいろが真四角で粗末な貴人の車にみえるということを滑稽に詠んだものである。
女性蔑視で叱られるかもしれぬが、”雛よりもいづれ二八の生のひな”なんてのもある。
ともかくも17世紀になると、庶民の間も雛壇を飾っていたことがわかる。
そして今になっても残っているのは、女子の幸せを祈った家族の愛が連綿と引き継がれている証拠であろうと思う。

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<来年の宿題>
・ひな祭りと蕎麦
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