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家庭文化の日

キッチン・バス工業会が11月2日に記念日を制定。
キッチンのkがアルファベット11番め、バスのBがアルファベット2番めからきている。書道の日でもあるが、これは11月3日に書こうと思う。

いきなりだが、ここで過去記事を参照してみよう
2018年11月2日の記事である。

文化の日といっても
その元は明治天皇誕生日の名残である。
本来的に文化を考える日ではないのかもしれない。

そういう見地からなら政教分離のごとく
政治と文化の分離を考えなくてはならないが、
ヨーロッパにおける宮廷文化の絢爛を例にあげても
影響をゼロにするのはできず、政治も文化の一つとして
みなしたほうが自然なのであろう。

自分は政治に関心が薄く、反権力的・反体制的な傾向がやや強いので、
そのバイアスがかかり、政治庇護のもとの文化に、
お仕儀せのようなものを汚れとして感じてしまうが
その性向は、政治も文化という視点から考え直すべきだと思ってはいる。

いずれにせよ 私の性向は学生運動時に大学の自治が唱えられたように、
学問の自由は政府や権力によって侵されることはない
という見地ばかりにとらわれすぎていて、アナクロニスムの感じがある。

私の主張は、
ただ国力をあげる方向に学問自体が矯正されてはならないというだけである。
そもそも 国という概念からして考え直すときに来ていると思う。
GoogleやAmazonなどの巨大企業が国に税金を払わずに、
世界の情報を握ったりや流通分野を席巻しているが、
これは国家の庇護がなくてもインフラが民間企業で整備される時代の到来を意味する。

国が人の身分を保証するよりも、個人がブロックチェーンにその証を求める時代が来るだろう。
国家の役割は今よりもより間接的になっていく傾向は否めないと思う。
刑罰的な事項はともかく経済的事項には政府の意向は働かない時がくる。
いまだって、クレジットカードが経済的身分を判断する基準として強くなっている。

政府の個人に対してする禁治産者でないという保証より
その個人その取引履歴照会の方がその人の経済的身分の保証になっている。
そして、それは個人が国に頼ることが もはやできなくなるという意味でもある。

そして国という概念が変われば、
家族や家庭という概念も見直さなければならない。
万世一系の国の体裁から公民国家になった(民主化って呼ぶのか)
これによっても家族組織は何らかの影響を受けた。

家族という機能を考えると、
国家や政治それに付随する教育
そして宗教などのことにも話が及んでしまう。

そんなことは、浅薄な自分が考えるまでもなく
かつて北一輝が考えてくれていたことなのかもしれない。
(日本改造法案大綱)
かつての家族は 産めよ増やせよという大号令のもと
子だくさんであり、今の核家族とは違うあり方だった。

それは兵士を多く育成するという国家戦略の
バイアスがかかったものであった。

そもそも家族とは
自分たちが家族だと思っている集団を指すのが原義だろう。

国は本来は関係ないはずであるが
先述のように政治も文化であればスキームの中に入る。

文化の日という名の由来を疑問視している。旧天皇誕生日を代替わりの名残として残すなら365日休みでいいのではないかぐらい思っている。都合よく天皇誕生日を使ったものである。自分のことをどちらかというと反体制の立場を表明しているが、実のところは少し違う。本来は政治なんかと無関係でいたいのである。政府がどんなに圧力をかけようが平気でいたいのだ。
 学術会議の人数を国が減らしたとか、フランス政府は日本の学術は抗議が足らないと表明している。たしかに社会主義体制の国で勃発するような出来事ではあるが、そもそも、学術は政府の意向から自由というなら、国の費用は使わないようにするべきであろうと思う。そうでないと気持ち悪くないだろうか。そうであってもお国のための学術なのであろうし、過去記事では文化の一部としているのだから、多少の悶着は仕方がないと思う。

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よく引用することだが、フランスの歴史家アリエスは、教職に進まず、
「日曜歴史家」と云われた人である。
そんなアナール学派のアリエスは「中世にいわゆる”子供”という概念は存在しない」とちょっとセンセーショナルな説を唱えた。

La théorie d'Ariès sur l'enfance montre comment la société évolue parce que les mentalités évoluent. Sa thèse repose sur deux idées : l'attachement des parents pour leurs enfants est né réellement avec le contrôle des naissances et la baisse de la fécondité, soit à partir de la fin du xviiie siècle ; avant l'enfant n'est qu'un adulte en devenir et la forte mortalité empêche une attention maternelle et paternelle trop importante.

拙訳)
アリエスの幼少期についての理論は精神性が進化によって社会が進化するように出現する
彼の理論では二つの考え方がある
まずは、親の子供に対する保護は実際には出生調整と出生率の低下により18世紀の終わりに出現したものである
そして、それ以前は子供は大人(adulte)に過ぎなかった。高い死亡率が母性や父性の重要性を回避させていた。

中世では子供は保護する対象ではなかったという
虐待が社会問題になっている今の時勢から思えば、ちょっと眉をひそめるようなことだ。
実際 戦時中の日本では、子供が多ければ一人一人に届く注意も散漫となったことだろうし、丁稚奉公の時代では、早くから子供は働き手として勘定されただろうから、アリエスのこの説をきいても受容しやすい素地あるやもしれない。子育ても文化の中にある。

2009年4月7日には、つぎのような記事を書いている。

近代の学校が誕生して以来
子供は子供として特別扱いを受け始める

つまりは保護すべき対象とみなされたのである
徒弟前には人間扱いすらされない

もちろん 中世の衛生状態、医療技術なども斟酌しなくては
ならないし
そもそも 家族という概念もいまとはだいぶ違うだろうから
道徳の欠如と糾弾するわけにはいくまい

「赤頭巾ちゃん」という童話があるが
この物語は変遷がある
ペローが記述を書き変えて以降と
それ以前とではだいぶ差がある
ペロー以前は
赤頭巾ちゃんがおばあさんを食べてしまう
また、服を一枚一枚脱がされて暖炉で焼かれてしまう
そしてついには 食べられてしまうのだ

さらにはオオカミはやっつけられない
(そもそも 赤い頭巾もかぶっていなかったようであるが)

フロイト派はなら この物語に登場する狼を
男性の象徴ととらえ その誘惑される願望(リビドー)の現れと
みるかもしれない

ペロー以後、グリム兄弟によってほぼいまの形となり
オオカミは猟師にうたれ
オオカミの腹の中からおばあさんと少女は無事救出される
勧善懲悪+道徳的な教訓つきとなる

ユング派なら 再生や復活とキーワードで分析しそうである
自分は帝王切開技術の進歩とみてとれる
というような解釈をしたい
帝王というのはカエサルを指すらしいが
当時の医療技術からして
死亡した母体から胎児を取り出したにすぎないであろう

ともかくも 「赤頭巾」はもともとはひどい話なわけである
さて 昨今 子供による
残虐な事件が多くみられる

「先生を流産させる会」は残虐極まりない
中世時代の子供の亡霊が復讐しているわけではなく

(当時はあたりまえのことなので復讐というのは
近代以降からみた感受性の表れにすぎないのだが)

弱いものが多数の徒党を組んで 解消しているとしか
思えぬので、ここでも数の論理が働くのである

まさに
イニシエーションになりつつある
ちょっと甘やかしすぎではないか
中世にもどした方がよいのかもしれぬ

この”赤ずきん”の焼き直すまえのエディションの残酷さを思えば、
アリエスのお説もさもありなん、と思うのであるが、学術的には反論されている。

Cette thèse a cependant fait l'objet de nombreuses critiques de la part des historiens. Dans sa préface de 1973, Philippe Ariès avait déjà nuancé son propos en indiquant qu'il avait trop insisté sur l'idée d'une rupture radicale à la fin du siècle des Lumières. Plus généralement, les recherches menées depuis ont permis de conclure que, durant l'époque médiévale, il existait bel et bien une reconnaissance de la spécificité de l'enfance et un grand attachement des parents pour leurs enfants. L'historien médiéviste britannique Nicholas Orme va jusqu'à écrire, dans l'introduction de son ouvrage Medieval Children (2001) : ≪ Les conceptions d'Ariès étaient erronées ; pas simplement dans le détail mais dans leur essence. Il est temps de les enterrer ≫.

試訳)
この理論はしかしながら歴史家から多くの批判を受けた。
1973年の序文では、啓蒙主義の世紀末におけるラディカルな破壊という考え方にあまりに固執しすぎである
中世史家たちの一般的な論調では中世にも幼年期を特別視する認識があり、親の大きな庇護がきちんと存在していたと結論づけている。
英国の中世史家であるニコラス・オルメは ”中世の子供たち”という著作のその序文に「アリエスの概念は誤りであった、詳細においては単純ではないが本質的には誤りだ。いまはそれを埋める時がきている」と書いている。

どちらが正しいのか、判断するにも、わたしには材料がないが、
アリエスは死亡率から自説を展開しているのに対し、当時の認識について庇護していた事実をどのように数値で表すのだろうか、
いずれにせよ数値で表しにくい”精神的もの”両親の子供に対する庇護を
どのように物質的な量で測れるかどうかの問題に帰着するのだと思う。

家族と道徳・・・
ここで問題が立ち上ってくる

家族をどこまでとするか何親等までなのかは、
国家が考える遺産相続は相続税の徴収のためであり
3親等までという概念も国家戦略からみた数え方であろう
保険適用も同じくである。そういった政治的な切り口もあれば
文化人類学的に家族とは何かをとらえる切り口もあるであろう。

政治の問題とは別に自分の家族としての境界の問題である
身内をどこまでとするかということである
つきつめてしまえば敵味方の範囲ということだ。

せいぜい親戚と呼べる範囲が自分にとっては妥当で
国家という家の単位までは延長したくない

またそこで民族の問題がでてくるから厄介だ。

子供に対する気配りもさることながら
老いに対する配慮もまた道徳と密接なのだ。

すると教育も・・・そして宗教も絡む。

家族という問題からなるべく離れた方が
精神的には解放されるかもしれない。
”家族という病”を書いた下重暁子女史の心根もそんなところかもしれぬ

私などがニーチェを持ち出して、破壊的に論じても
狂人扱いを受けてしまう。
家族という共同幻想の前には哲学は無力だったりするものだ。
独我論と呼ばれてもいいから、
家族と疎な関係を保った方が人生は楽しいという
私の幻想がある。

私の幻想は別として、
家族はこうあるべきという歪な目標は相対化されるべきだろうと思う。
家庭の在り方も時代によって違う。
その幻想を作っている当の大元を見つめてみようということだ。

アリエスは中世の死亡率や道徳の低さが家族に与える影響について考察した。
”家族はいいものだ”という幻想が自由な発想を縛り付けないようにしたい。

家族を持つことは良いところも悪いところもある
徒然草の一段のあらえびすのおそろしげなる人を持ち出して
子供を産むのはいいことだと言い出してもそれはそれなのだと思う。

夫婦もそうであるし、恋人という関係も
どんな関係を築きたいのかを
期待などしないほうがよいと思う。

なるようになり、ありのままを受け入れ
そしてどうしていきたいのか互いに話し合うしかない。

考えすぎると問題を大きくしてしまう。

たとえばつぎのようである。
家族はこうあるべきという、いわば恥の文化が
日本を支えてきたというお説をきいたことがある。

支えてきたというのはどういうことか
他国との優位性を保ったということか
他国よりも安全な国を作ったということだろうか

家族の名誉のため頑張るとか
高度経済成長期に
中流にはならないと恥だと歯を食いしばった
お父さん方もいただろう。
でも、それがなんなのだろう。

そうした恥をかかないようにしようという苦労が
なんらかのハラスメントや抑圧になっているのなら、
まったく不要なありがた迷惑だ。

家族のためにと思ってやったことは
お父さんがたの正義であっても
新しい時代の価値では、方向性が違うかもしれない
相対化して考えるということはそういうことだ。

そんなことをいうと
お父さん方に失礼だとかいう”ものいい”も、
道徳的にはそうなのかもしれないが
相対化の中で無効のはずなのである。

といった 
くさぐさな議論をいちいち家族でするだろうか

そして話が通じるだろうか・・・

恥を受け入れる文化もいいのではないか
先日の若者の渋谷のハロウィンの乱痴騒ぎは
恥とは無関係というか
恥の文化への無意味な反逆として勝手に捉えて
私としては少し溜飲を下げたところがある。

でも、若者よ もっと暴れろと 心の中で叫ぶ
というまでは さすがにない。

ただ若者はハロウィンという舞台のお膳立てがあるから騒いだだけなのだ。
体制があるから反体制があるのと同じで依拠するものがあって成り立つにすぎないし
なんらの思想もそこにはない(それでいいのであるが・・・)
もともとはキッチン・バスの日だという
文化の日を前に”家庭文化のあり方を考える日”だというが
このご時世にテーマが重すぎやしないか。。。。

今年は静かなハロウィンだったという。年々考え方は変化していくのである。その変化の中で、家庭というものが”かくあるべし”によって縛られるのは、しかも、生きにくいほど束縛が問題を起こすのであれば、家族なんてなければいいとさえ思う。家族といるときが一番いいとか、家族ってやっぱりいいものだというのは、お茶の間にTVをおいた過去のあるべき姿であり、視聴率至上主義のTVマンが描いた虚妄にすぎない。
家族っていいものだ、という人もいる。というだけの話である。
ダイバーシティが叫ばれる中、すべてを相対化して考えたほうがよいのである。

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<来年の宿題>
・グリム童話の変遷
・家族という病(再読)
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