三線の日

語呂合わせで、沖縄県と沖縄県琉球放送が3月4日に記念日を制定

三線の歴史については、

14世纪末期明朝渡琉的闽人三十六姓将三弦带往琉球,加入了鼓和手拍子,结合了当地的音乐艺能,形成了琉球特有的三弦音乐。经过琉球数代工匠的本土化,创造出了琉球特有的乐器。16世纪,三线从琉球传入日本的堺,形成了日本特有的乐器三味线。因三线与日本的三味线极为相似,该音乐在向象贤的改革中被保留并发扬光大,琉球士族纷纷学习演奏三线。琉球王府于17世纪中期设立“三线主取”一职,管理三线的制作。

のように、中国の3弦の楽器が元(ルーツ)で14世紀に明朝との貿易により、琉球に伝わり特有の楽器となっていった。16世紀に堺に伝わり、三味線となっていく。17世紀になると三線の製作は王朝の管理下になる。
2つのことに力点をおきたい。まずは、琉球独特の楽器であるということ
さらに、王朝の管理下であるということである。

 本土の三味線よりも三線は棹の短い。現在では古典と呼ばれる士族層を中心とする芸術的な歌曲がまず発展して、やがて民間でも使われるようになる。未婚の男女が野外でやる掛け合い歌(モーアシビ)や、7月のエイサー、8月のむら踊りなど芸能を提供する場では必ず三線が効かれるようになる。しかしこの楽器はそれ以上である。沖縄においてこの楽器は楽器以上の何かなのである。
 三線は絃と棹と胴からできている。なかでも棹に重点がおかれるという。
まず本土では継棹といい3つに分割して持ち運ぶこともあるが、沖縄ではそれはしない。
 じゃあ、さぞかし高級な材料が使われているのかといえば、そうでもないという。また、南風原→知念大工→久場春殿→真壁→平仲知念・・・と型の変化の沿革があれど、南風原を克服して知念大工ができたわけでもなく並列で存在しているのである。楽器を作る人達からみれば胴に重きをおいており音色はそこで変わるとして棹にそれほど重きをおいてない。さらには絃も中国の輸入品を使っているという無頓着ぶりである。
こうなると、棹に重きを置くのは音色としてのこだわりではなく、なんらかの精神性のものを棹に込めているのである。分割に便利さを感じるよりも、分割するなんてとんでもないと考えるようである。

Une tradition populaire veut qu’un dénommé Akainku, un grand chanteur d’omoro, ait été le premier à utiliser l’instrument dans le répertoire autochtone, mais les sources écrites sur ce personnage n’apparaissent qu’à une date bien ultérieure et font la part belle à la légende (à l’heure de sa mort, il serait monté au ciel dans une colonne de lumière) ; il est donc difficile de distinquer le vrai du faux dans cette tradition populaire. La première musique de sanshin dont on garde la trace aujourd'hui est l’œuvre de Tansui-Uêkata (1623 – 1683), le fondateur de la musique que l’on nomme aujourd’hui musique classique des Ryûkyû (« Ryûkyû koten-ongaku »). La pratique de l’instrument ne s’arrêta toutefois pas aux classes dirigeantes, mais se répandit dans toutes les couches de la société. Il faisait partie de l’enseignement dispensé aux courtisanes, mais accompagne également souvent les chants et danses des classes populaires (eisâ, mô-ashibi).

赤犬子(アカインク)は16世紀始めのころ、いつも三線を肩に村々をめぐっていたというオモロの名人。この人が歌三線の創始者だという。

歌と三線の昔始まりや
犬子音上がりの 神のみ作

三線は歌と一緒に発達したのである。工工四(譜面化)もあまり行われなかった。つまり歌に合わせる勘所の譜面なのである。歌に合わせる打楽器のような音色や音階というものでない使い方。そこにこそ三線の使われ方の髄があるようだ。

 関西と沖縄の悲しい差別の歴史も交差するのであるが、大阪に渡った遊女はどんなに落ちぶれても三線を手放すことはなかったという。
沖縄における三線について、今度沖縄出身の友人にでもきいてみようと思う。

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<来年の宿題>
・ヴィヴァルディ
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