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学生最後に気づくこと

2021年3月17日

大学の卒業式を迎え、私は長かった「学生」という肩書を卒業した。

この卒業と同時に気づくことは、自分の居場所は学校以外にたくさん作れるということ。

思い返してみると、これまでの学生生活は学校の中になんとなく居場所がないような感じがあった。親友もいたし、誰かにいじめられていたわけでもない。ただなんとなく周りのたくさん友達がいるような子を羨んだりすることが多かった。親友と言っても、よく話す子、中高それぞれの3年間の付き合いがあって、その3年間の思い出を共有できる子、一緒に出かけられる子なんて定義は様々だろうけれど、大学で出会った子や幼なじみを除いて、あまり自分をさらけ出したことがないと思う。

人目を気にしすぎる学生だったのだろうと今は思う。地元を離れ、親元を離れ、アルバイトも経験して、いろんな人とたくさん会話をした今だから思うけれど、私は同級生が苦手だ。同じ学校ではなくても同い年があまり得意ではない。先輩、大人、初対面の人、後輩には全く緊張しないけれど同級生にはとても緊張する。話題が出てこない。

同い年に対して、どこか冷めた目で見てしまうことがあり、みんなとキャッキャと話すことができない学生生活だった。キャッキャすることはできるけれど、自分の本心ではなくて空気の流れ的に合わせていた。だから同い年はすごく疲れた。1番気を遣う。同級生なら尚更。空気の読めないやつだと思われてハブられてしまうのが怖い。1番ヒヤヒヤしながら過ごしていた生活だったと今考えれば思う。

大学でも全く無かったかと言えば、そんなわけでもない。入学したての1年生の時なんて、合格と同時にTwitterで大学用のアカウントを作り、積極的につながろうとしていたし、入学式前のテストや入学式でも何が楽しいかわからないけれど、大人数のグループで行動していた。

でもそんなふうにみんなで動くのも最初のうちだけ。気の合う人たちを見つけたら多くても4人くらいのグループになっていたし、1人で行動する人の方が圧倒的に多かった。単位なんてなんとかなると思っていたし、特に友達と授業を合わせることもなく、たまたま同じやつを取っていたりしたら一緒に受けていたけど、あまり人目を気にしない生活をするようになった。大学時代に仲の良かった子たちはみんな忙しくて、ひとり暮らし勢はいなかったから、大学外でも自分の好きなように行動できるようになった。東京は電車の本数も時間もたくさんあるから、待ち合わせで“この時間の電車”って縛られないのもとても嬉しかった。

卒業式はちゃんと開催されて、1年ぶりにみんなに会えた。でも同じ専攻で仲の良い子は1人だけだったから、写真とかどうなるか不安だったけれど、みんな知ってる人は撮ってくれてとても嬉しかった。

卒業式が終わった後、袴を着たままアルバイト先に行った。前もって卒業式終わったら寄ってね、って言われていたのでお邪魔したらたくさん写真を撮ってくれた。ピアノの習い事も近くでやっているので顔を出したら、みんな卒業おめでとうって祝ってくれて一緒に写真撮ってくれて、先生は連弾までしてくれた。

卒業式の夜、みんなと一緒に撮った写真を見ながら、私は「ちゃんと居場所があった」ことに気付いた。学校の中だけではなくても、自分のことをわかってくれて声をかけてくれて、悩みには真摯に向き合ってくれる人も、場所も私にはあるんだって学生最後の夜に気づくことができた。この日に顔を出せなかったけれど、半年通っているスイミングでは、少し行く時間が遅くなると「こっちだよ〜」って呼んでくれる人がいるし、学校という窮屈な場所には居場所が無かったかもしれないけれど、自分が安心できるコミュニティがちゃんとあって「良かった」と安心できる出来事だった。

小中高なんて同じクラス、同じ学年という窮屈な場所で、関わりがあってもせいぜい2個くらいの年の差で同い年と接しなきゃいけない時間がほとんどで、(どうして自分はみんなと同じように自分をさらけ出したりできないのだろう)と思っていたけれど、無理して「学校」というコミュニティの中に居場所を見つけなくても、自分が生き生きとできる場所は他にあるんだと最後に気づくことができて良かった。同い年が苦手であれば、無理して関わらなくていいし、バイトをするなり、ネットでコミュニケーションを図ったり、居場所なんて案外作れるものだ。その中の世界だけが全てじゃない。その小さな世界にいるのはもったいないよ。

あの頃の自分に教えてあげたかった。楽器でもネットでも自分の好きをちゃんと持ち続けてね。周りに合わせてばかりでは自分が何が好きだったのかも、自分がどんな意見をもっているのかすら忘れてしまうから。



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