見出し画像

口紅にまつわる小噺


私は電車に揺られていた。 平日の午後であった。日本中で労働の緊張が張り詰めたこの時間、電車の中は外の世界など素知らぬ顔の平穏な海中のようにのどかな空間だった。座席はまばらに埋まっているだけで、人々は手元のスマホを見つめたり、電車の心地よいリズムにまかせてうたた寝をしたりしていた。
私の目の前には若い女の人が座っていた。ショートヘアで薄手のカーディガンを羽織った地味な見た目であるのに、その背筋だけは背中に板でも入っているかのようにピンとまっすぐ伸びていて、くっきりと目立っていた。窓に映る青い空の背景が、彼女の清さをより際立たせているようだった。
彼女の右側には一つ空席を置いて、だらしのない腹をしたおじさんが空を見つめていた。左隣は一番端までずっと空席だった。

女の人はずっと窓の景色、つまり私が座っている側の窓の方をピンと伸ばした背中で眺めていたが、ふと何か思い立った表情をすると、視線を降ろした。
膝の上にちょこんと乗せている小柄なショルダーバッグの蓋を開けて、中からコンパクトと鉛筆のように細い小筆を取り出した。コンパクトを開くと、小筆で中身をねっとりとすくい取り、それを顔の元へ持ってきて、唇の表面をそっと叩くようにしてのせていった。それは、紅であった。彼女の薄くて地味な唇は、筆が触ったところから挑発的な赤に変化していった。それはまるで水の波紋が広がる様子に似ていた。
だが、その様子は一瞬で遮られた。右側から植物のように伸びてきた醜い手が、彼女の筆を振り払ったのである。
「電車で化粧なんてけしからん女だ」
鼻に詰まったように不透明な野太い声。その声の主は、あのだらしのない腹をしたおじさんだった。太い眉の下の目は彼女を嫌なものを見るように非難し、口はこれでもかとひん曲がり、大きな団子鼻に辛うじて空いた二つの穴から、何度も空気が放出されていた。
女の人は、あっけにとられた表情で彼を見つめた。
「マナーってやつを知らないのか。迷惑で世間知らずな女だ」
おじさんは、女の人が何も言わないのをいいことに、非難の声を畳み掛けた。その声は必要以上に大きく聞こえた。周りの乗客は下を向いたり窓を見つめたりして、その声に気づかないふりをした。
私は女の人の方に同情した。彼女はちょっと紅を塗るだけだったのだ。私にもそういう瞬間がある。何もファンデーションをパタパタさせて粉を飛ばしたりしたわけではないのに、なぜ筆を振り払われ、文句まで言われなければならないのだろう。
「お前が化粧をするところなんて誰も見たくないんだ。見苦しいったらありゃしない」
そんなことを言うなら誰もあんたのひどい太鼓腹や意地の悪い顔を見たくはない。私は腹の中でふつふつと怒りが湧いてくるのを感じた。
あっけにとられていた女の人は、まもなく平静な顔を取り戻すと、足元に転がっていた筆を拾った。
「謝りもしないのか。ほんとにだらしのない女だ」
女の人はその筆をバッグの中にしまうかと思われた。でも、予想を裏切って再びもう片方の手に持っていたコンパクトを開いた。そして筆をそこに何度もこすりつけ始めた。その様子を見て、おじさんはますます声を荒げた。
「おい!人の話聞いてるのか」
突然のドスの効いた声の迫力にびっくりした私の肩が一瞬震えた。だが、女の人はビクともせずに筆をコンパクトにこすりつけている。
怒りを露わにしたおじさんはついに右手拳を窓に打ち付けた。車内にはガンっという鈍い音が響いた。
まるでその音が合図だったかのように、女の人はついに目をあげると、たっぷり紅をつけて先端がぷっくり溜まった赤い血のように丸くなった筆をおじさんの顔めがけて塗りつけた。
瞬く間におじさんの両頬にハートマークが浮かび上がった。
「何をする!」
おじさんは肉で詰まった顔をぶるっと震わせて手を払ったが、ハートマークはしっかり刻まれていた。怒りをあらわにした顔に一番似つかわしくないハートをつけたおじさんの顔はいかにも滑稽だった。
女の人はその顔をニコリともせず真っ直ぐ見つめ、言い放った。
「あなたが必要以上にひどい態度で私を脅さなければこんなことにはならなかった。つまりあなたは自分から迷惑を被りに行ったのよ」



#小説
#化粧
#口紅
#リップ
#創作

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?