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人形を抱えたこどもはついに大人に成長する


初音ミクと結婚するのってどんな心境なんだろうと疑問に思って、自分にとっての初音ミクに該当する二次元キャラクターを考えてみたらそれはモリゾーだった。2005年開催の愛知万博公式キャラクター"モリゾーとキッコロ"の、モリゾーである。

私とモリゾーの出会いはなかなかロマンチックだった。
私が6歳か7歳の頃、家族で茨城の海に泳ぎに行ったある日、砂の中から発掘したのがモリゾーだった。こどもの手のひらにすっぽりと収まるほどの小さなぬいぐるみで、頭のてっぺんからチェーンが伸びて途中で途切れていたことから、この子はもともとキーホルダーで、何かの拍子で持ち主のカバンからうっかり落ちてしまったらしいということが分かった。それを、砂を掘り返して遊んでいた私が発見したのである。
砂まみれの小さなモリゾーはテレビで見た着ぐるみのイメージより儚くて悲しげだった。きっとこんなところに閉じ込められてずっと苦しかったのだろう。私はモリゾーに同情すると同時に、この子は今後ずっと一緒にいるだろうという確信に満ちた直感を感じていた。
持ち主のことも頭によぎったが、出会ってしまったからにはまた砂に埋めて放置なんてもうできない。ずっと手に持って離さない私にみかねて母は、「いいよ持って帰りな。洗濯すれば綺麗になるよ」と言った。
私は歓喜した。この子が、うちに来る。素晴らしい提案。だって砂から生まれて私の目の前に現れてくれたんだもん。私に会いに来たってこと以外考えられないじゃない?
そんなようなことを思いながら、私はモリゾーを手のひらの中に大事そうに包んだのだった。


このロマンチックな出会いは、相手が人間だったら"運命的な出会い"とか、"赤い糸で結ばれた二人"と表現されてもおかしくないと思う。
砂に埋もれてチリチリになった毛は、その後何度洗濯しても治らなかった。けれどそれが一層そのモリゾーを特別な一人にさせた。見る角度によっては笑っているようにも、怒っているようにも見えたし、このモリゾーにはちゃんと心があると子供ながらに確信していた。家族旅行の際は車の窓のところに掛けて一緒にドライブをしたし、受験の際はバッグに忍び込ませてお守りにした。不思議なことに、モリゾーがいれば大丈夫という絶対的な安心があったし、実際モリゾーを持っているときはすべてうまくいった。
こうして私はモリゾーとともに成長し、今に至るのだった。

でもやっぱり、モリゾーと結婚したいという願望にはどうしても至らなかった。私にとってのモリゾーは、いわば親のような絶対的味方だった。特別な存在には違いない。ただそれは恋愛感情によるものではなかったということだ。
しかもそれはモリゾーのあのチリチリの毛に包まれた体に見出していたのではなく、モリゾーという偶像的観念から私が勝手に想像した信仰の内にあるのだった。そして、それは初音ミクを恋人として認めた人の心と、何ら変わりもない人間らしい心によるものだった。


もう一年ほど前になるが、私はモリゾーをなくしてしまった。リュックに入れて持ち歩いていたが、いつのまにかいなくなっていたのだ。私は一時、人生の半分を欠落してしまったような深い絶望に襲われた。心にぽっかり穴があく、というのはなるほどその通りなのだな、と思った。
でもなぜか、ようやく自分が自分のとおりに生きていくスタートラインに立った気がした。いわば親離れを果たしたのだ。モリゾーはいなくなったのではない。あの小さな体から抜け出て、私自身となったのである。親という偶像への依存を、ついに自身の内に芽生えさせることに成功した数多くの子どもたちのように。
私はいつの間にか、大人になっていた。




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