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インスタグラムを始めたら、玉手箱を開けていた。

昨年の10月の終わりにインスタグラムを今更始めた。
このアプリは、どうやらフェイスブックと連携しているらしい。フェイスブックのアカウントはもともと持っていたので、連携を許可するとそちらで繋がっていた人たちが最初からフォローされた。その中には数人の中学の友人も含まれていた。
すると、卒業以来ずっと連絡が途絶えていた懐かしい顔ぶれがわたしをフォローし始めた。わたしのアカウントが彼らの”おすすめ”欄に表示されたからだ。そして、わたしの”おすすめ”欄にも、彼らのアカウントが表示されるようになった。

同じ中学校で多感な時期を共有したはずの友人達は、5年と半年の時を経て、様々な変化を遂げていた。
エステティシャン、公務員、パチ屋の店員、アパレルの店員、パン屋の店員、結婚して名字が変わっていた女の子、双子のパパとなった男の子、世界を飛び回っている人、地元の友達といまだ根強くつるんでいる人、ゴスロリに目覚めた人、アイドルの追っかけをやっている人、恋人とラブラブな人、楽器を続けている人、見抜けないほど別人の顔になった人…。
まるでコレクションカードを眺めているような気分だ。
それは、”わたしが歩んでいたかもしれない人生”のコレクションだった。

少なくとも高校受験までは、同じ土台に寄せ集められた私たち。
同じ時代に、同じ地元で、同じ時間で区切られた生活をして、同じ給食を食べて、同じ教科書を読んで学んだ私たち。
まだ未来など途方もなく遠く、20歳を超えた自分なんてかけらも想像できなかったあの頃、やがて迎える高校受験も、一つの分かれ道に過ぎなかった私たち。
今思えば長く濃密なようであっという間にかけて抜けていった”青春”という時間は、若い私たちがそれぞれの方向に枝葉を伸ばすのには充分すぎる時間だったようだ。同じ出発点をスタートしたはずの私たちは、今ではこんなにも違うのだから。

ツイッターにはリア友を入れておらず、フェイスブックも大学生になってから始めたわたしは、彼らの人生をワープした。まるで、自分の人生という竜宮城に夢中になり時を忘れ、やっと帰って玉手箱を開いてみると、周囲の驚くべき変化に目をパチパチさせる浦島太郎のような気分だった。
そして同時に、猛烈な切なさがわたしを襲った。それらのすべての人生は、私がもう得られない人生だったからだ。

わたしは中学2.3年のクラスに良い思い出が皆無だったが、成人式は参加した。
成人式会場は、タイムトラベルして14歳の自分たちに戻ったような変な気分だった。みんな意外と変わっていないものだ。
でも、成人式の時間はあまりに一瞬だった。同時に、もともと仲の良かった部活の友人たちとしか話す機会がなかったし、そうすることしかできなかった。
だからわたしにとっては、インスタグラムを通した同級生たちとの出会いの方が衝撃的だった。そこには、あまり交流のなかった友人たちの生活が宝箱のように詰まっていたのだ。
あまり友達が多くなかったわたしだが、インスタグラムを通して初めてちゃんとやり取りをするようになった友人もできた。実際に再開してご飯を食べに行った女の子もいた。
こうしてわたしは、数人ではあるといえど地元の友人たちとの繋がりの糸が修復された。それはまるで、それた道を軌道修正するかのようだった。
だが、中学の友人との交流を一切絶っている人、そもそもインスタグラムをやっていない人も当然いる。連絡先も知らないそのような人たちの現在は、もはや知る由もない。
わたしはその行方不明の彼らたちと紙一重の人間だった。1年生の時のクラスは楽しかったが、2.3年のやんちゃぼうずとギャルだらけのクラスを、いつしか憎むまでにもなっていた。こんな世界抜け出してやる、そんな思いが心の底に根を張っていた。その悔しさとも怒りとも取れる感情をバネに、高校は県で1番の成績を誇る所に進み、現在は東京の街を闊歩する大学生となった。わたしもみんなに負けないくらい、変化しているのかもしれない。

今まではわたしも、消息を絶った仲間のうちの一人だったのだろう。だけど突然インスタグラムという輝かしい世界にわたしは姿を現した。
沈黙を破り、みんなの前に現れるという選択をしたわたし。
流星のごとく颯爽と現れたわたしの人生を、中学の友人たちはどう思っているのだろうか。

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