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映画「こちらあみ子」の感想

子供は自然そのもの

わたしもあみ子だった。この映画を見て、子供の頃の肌感覚がリアルによみがえった。あみ子のように、自然に目を奪われ、自然の音にどっぷり浸かり、躊躇なく自然と戯れた。わたしたちはみんな自然の一部だった。

子供は自然そのもの。それがいつの頃からか〈自然のままでは生きづらい〉ということを知り、気づけば空気を読んで行動する大人になっていた。

作品中、悲しい出来事がたくさん起こる。そしてそれを言葉にすると、何やらシンドい映画のように思われるかもしれない。でもスクリーン上のあみ子とあみ子をとりまく世界は実に瑞々しく美しい。それは決して架空の世界ではなく、しっとりとした確かな重みがあり、この映画をずっと見ていたいという気持ちになった。

大沢一菜さんがもつ強烈な野性味が、〈ちょっと風変わりなあみ子〉という存在にリアリティを与え、わたしたちを〈あみ子の世界〉に見事にひきこんだ。

あみ子から見た大人の姿

映画の中の大人たちを大人の目線で見ると、あみ子に対してもっと違う関わり方ができなかったのかと思う。でも大人だって自分のことで手いっぱいだったり、子供と向き合いたいのに言葉が見つからなかったりする。

というか、あれがあみ子から見た大人の姿なんだと思った。「誰も教えてくれない」。「いっつもあみ子に秘密にする」。大人が何を考えているのかあみ子にはさっぱり分からない。だからますますかみ合わない。

でも当のあみ子はケロッとしていて、「大人はわかってくれない」というよりは、「大人ってよくわからない」という感じ。この映画の主語はすべて「あみ子」だ。

井浦新さんが「父親の悩みが表情に出ないようにしながら、伝わりづらくあろうと思っていた」と言った意味がよくわかった。映画の中で大人が自分たちの苦悩を表現してしまうと、そこから〈大人の物語〉が始まってしまい、〈あみ子の物語〉を壊してしまうからだ。

あみ子にとって〈大人の事情〉は、〈幽霊の存在〉と同じくらい〈よくわからないもの〉ではないだろうか。〈よくわからないもの〉って、なんだか怖い。お母さんも最初は「ほくろおばけ」だった。

いくら歌を歌って気を紛らわせようとしても、怖いものは怖い。「こわいんじゃ、こわいんじゃ、たすけてにいちゃん!」というあみ子の叫びの中には、幽霊以外のものへの恐怖も詰まっている気がして切なかった。

「だいじょうぶじゃ!」

エンドロールが流れている間、劇場内では誰も身動き一つしなかった。寂しげなのに優しい青葉市子さんの歌声にみんな聞き入っていた。あみ子とわたしでは生まれた場所も時代も違うのに、懐かしい気持ちでいっぱいになった。あみ子を通して、子供時代を追体験ならぬ再体験させてもらった気がする。

この映画には寂しさがあふれている。すごく寂しい、寂しいんだけれども、世界はキラキラしていてワクワクする。大好きなもので満ちている。なんだかんだ言って、あみ子は孤独ではない。お兄ちゃんはあみ子の救世主。坊主頭はあみ子の理解者。お父さんだって。

ひたすら寂しくて、ひたすら優しい。

最後にあみ子は「だいじょうぶじゃ」と力強く言った。あみ子の笑顔が眩しかった。



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