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トークイベント「『こちらあみ子』を語る夜」によせて

はじめに

「『こちらあみ子』を語る夜」というトークイベントに触発されて思ったことを書きたい。記憶にもとづいて書いているので、もしかすると登壇者の方たちの表現や意図を正確に書けていないかもしれないが、その点はどうかお許しいただきたい。

以下、わたしが個人的に興味をもった点だけを取り上げており、イベント全体のレポにはなっていない。実際にはここに書ききれないくらい面白い話がたくさん出た。興味のある方はぜひオンデマンドで。(チケット代:1500円、視聴期限: 2022年8月10日(水) 23:59 まで)

異端者

さて、このイベントでは「異端者」という言葉がキーワードになっていた。あみ子のような存在をなんと呼ぶか悩ましいところだが、あみ子をはじめ、さまざまな理由で社会からはみ出してしまっている人たちのことをあの場では「異端者」と呼んでいた。

「はみ出し者」というとなんだか可哀想なイメージだが、「異端者」というとちょっとかっこいい。「異端」の反対は「正統」。無難で型にはまった「正統派」よりも、ちょっと道からはずれた「異端者」の方が自由で個性的かも。

そして今村夏子さんはこの「異端者」を描きつづけてきたとのこと。最新作もコミュニケーションが苦手で社会にうまく適応できていない人の視点が描かれていると聞いて、すごく興味がそそられた。

「普通」と「普通じゃない」の境界線

トークイベントの内容とは少し話しがずれるかもしれないが、個人的にコミュニケーションのうまい「正統派」とコミュニケーションが苦手な「異端者」の境界線はどのあたりにあるのか気になった。

実際、「自分はコミュニケーションが得意だ」と言い切れる人はどれくらいいるだろう。おそらく世の中の大半の人は、多少なりとも苦手意識をもっているのではないだろうか。

この苦手意識の度合いが大きい人はかなり生きづらい思いをしている。また本人が生きづらさを自覚しているしていないに関わらず、そのコミュニケーション力が社会生活を送るのに支障があるレベルだと、それは「障害」と認定されることがある。

少し前まで、自閉症とか、広汎性発達障害とか、アスペルガー症候群などと呼ばれていた診断名が、今ではひっくるめて「自閉症スペクトラム障害」(または自閉スペクトラム症)と言うようだ。

「自閉症スペクトラム障害」とは、コミュニケーション力・想像力・社会性に独特な特性がある障害のことで、「スペクトラム」とは、虹色の光のグラデーションのように、境界があいまいで連続性をもっているという意味。「境界があいまいで連続性がある」ということは、言い換えれば、人はみな多かれ少なかれ、「自閉症スペクトラム障害」の特性をもっているということになる。うまく人と関われなかった経験くらいなら、きっと誰にでもあるだろう。だからこそあみ子を見ていて切なくなるのではないだろうか。「発達障害」という言葉を使うと、自分たち健常者と障害者との間に線引きをするイメージだが、実際には線引きなど不可能なのだ。

トークショーの中でも、人は誰でも「異端」の要素を何割か背負っているというような言葉があったかと。そして、だからこそ多くの人はあみ子に共感するのだ、と。

異端者の世界

多くの人はコミュニケーション力が高いことは良いことだと考え、それがないとコミュニティの中では阻害されがちだ。あみ子はまさにコミュニケーション力が低い子だ。ところがそれにも関わらず、わたしなどは映画の中のあみ子にある種の憧れを抱いてしまう。

目の前のものにすぐに気をとられる、時間を忘れて一つのことに熱中する、ほかの人よりも多くの音をキャッチする、平気で裸足で歩き回る、こうした行動は通常は好ましくない特性として語られるが、映画の中のあみ子は、どこまでも生き生きとしている。「こちらあみ子」は、あみ子のような「ちょっと変わった子」の特性を、その〈負の側面〉だけでなく、〈正の側面〉についても、美しい映像によって魅力的に描いている。

かつてわたしたちの中にあったはずの何かを、今はすっかり失われてしまっている何かを、あみ子はもっている。程度の差こそあれ、あみ子がもつ特性をみんなももっている。この映画を観ると、こうした特性は全面的に否定されるべきものでないと思わせてくれる。青葉さんが言われた「この映画を御守りに」という言葉をわたしはそう理解した。この映画を観て、自分の特性が受入れられたように感じたのはわたしだけではないと思う。

カタルシスについて

あとトークイベントの中で興味深いと思ったのが、この映画にはカタルシスがない、とう意見だ。「カタルシス」とは、心の底によどんだ感情が解放され、精神が浄化されること。そしてこの映画は、物語をもっと悲劇的に、あるいはもっと感動的にもできるのに、それをあえてしていない。だから、カタルシスがないのだ、と。

確かにこの映画を観て、モヤモヤした気持ちになった人は多そうだけれど、わたしはこの映画を観て、何かを思い出し、まさに「浄化された」気分だった。映画を観て以来、世界が少し鮮やかに見える気がする。

それとあまりにも悲劇的だったり感動的だったりすると、逆にしらけてしまう。この映画は押し付けがましくないのがいい。静かに淡々とあみ子を描写してくれた方がリアリティが感じられて、胸に迫るものがある。これはまさに原作がもつ魅力そのものだろう。

ミニライブ

トークイベントの最後にあった青葉市子さんのミニライブがめちゃくちゃ素晴らしかった。主題歌「もしもし」を普通にサラッと歌っておしまいかと思いきや、あそこまでやって下さるとは!主題歌と劇中音楽を絶妙に組み合わせ、さらにアレンジを加えた構成。青葉さんの「こちらあみ子」への想いが伝わってきた。映画を観た人なら絶対にグッとくるはず。

またわたしは青葉さんが演奏されてる様子を初めて見たので、あみ子の楽曲はあんなふうにして作られていたんだと感無量。あまりの感動にPCの前で泣いてしまった。青葉さんは自分もあみ子だと言われていたが、確かにもう一人の“あみ子”が演奏していた。あれをイベント会場で生で聴いた人たちが本当に羨ましい。

おわりに

トークイベントを通じて、映画「こちらあみ子」の捉え方はさまざまだとあらためて思った。映像化することで切なさが増したという人もいれば、原作と比べて映画の解釈は優しすぎるという人も。あみ子と同化してあみ子を一人称で捉える人もいれば、あみ子と一定の距離をたもって完全な三人称で捉える人も。優しいのか、残酷なのか。疎外されているのか、居場所を探しているのか。

森井監督は、自分が描きたいと思ったものが作品の中にはあるが、それをどう捉えてもらっても構わないというようなことを話されていたと思う。活弁シネマ倶楽部のインタビュー動画を見た時も思ったが、今回のイベントでも、森井監督は、色んな人の色んな解釈に対して、乾いた土に水が染みこむように、とても静かに「なるほど」と受け入れておられた。社交辞令でもなく、賞賛するでもなく、反発するでもなく、ましてや相手の意見に興味がないわけでもなく。「そういうところだな」と思った。この映画は誰も疎外しない映画だ。

映画「こちらあみ子」は、哀しい出来事が次々と起こる中でも失われることがない、異端者の世界がもつ豊かさを見事に描いた稀有な作品だと私は思っている。





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