記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

小説『こちらあみ子』の感想

原作が先か映画が先か

映画「こちらあみ子」を観て、とてもよかったので、原作も読んでみた。原作もとても素敵、というか、映画はこの素敵な原作をかなり忠実に映像化したものだったんだなと。

こんなことを言うと原作ファンの方たちに怒られそうだが、すでに映画を観てしまっているので、どうしても映画のイメージから抜け出せず、原作はあの映像が言語化したもののように感じられ、森井監督が小説から得た衝撃のようなものを味わうことはできなかった。

「あみ子」という文字を見ると、もはや大沢一菜さんの顔しか浮かんでこない。

〈原作を読んでから映画を観るべき〉か、〈映画を観てから原作を読むべき〉か、悩ましい。どちらと先に出会うかは、〈運命〉としか言えない。

原作と映画の違い

活弁シネマ倶楽部のインタビュー動画で、森井監督は、映画化にあたって原作を読み返しすということをしなかったというから驚き。読み返さずにあれだけ忠実に描けるのは、それだけ原作が森井監督の血となり肉となってるんだな。

もちろん原作どおりでない部分もあって、原作から何をとって何をとらなかったのか、色んな判断があって面白い。例えば、原作の冬の描写を真夏のじっとりとした蒸し暑い描写に置き換えることで、映画が描きたかった生命の息吹がより鮮烈に表現されていると思った。

あとのり君に殴られて折れたのは、鼻ではなく前歯だった。前歯が折れたことは、原作ではとても大事な要素だけど、映画ではビジュアル的に再現が難しいためか、前歯関連のエピソードはざっくりカットされている。

また映画のエンディングは、希望をもたせるようなかたちで終わっているものの、その後のあみ子がどうなるのか、若干の不安が残ったが、原作には、その後のあみ子の暮らしぶりが描かれていて、あみ子が〈居場所〉を手に入れることができたようで少し安心した。

あみ子と霊的なもの

わたしは、映画を観て、あみ子が周囲の人から疎外されながらも、自分の世界の中で〈生〉を満喫する物語として捉えたが、パンフレットによれば、裏設定として、亡くなったあみ子のお母さんの視点で描かれていると知った。

あみ子は、お化け?幽霊?を怖がりながらも、〈死〉についてあまり理解できていない印象だったし、お兄ちゃんによってお化けの正体が暴かれたあと、海辺でお化け?幽霊?とちゃんとさよならできていたので、わたしの念頭には霊的なものはまったく存在しなかった。

念頭にはなかったが、裏設定を知って、常にただよう寂しさの中、ずっと感じられた優しさの正体、そして青葉市子さんの「もしもし」の意味、そうかそうだったんだ、と一気に腑に落ちた。

原作もラストで「あみちゃん、あみちゃんな」と名前を呼ばれてあみ子が驚く場面があるが、あれは本当に祖母の声だったのかなと、ちらっと思った。さすがにちょっと映画に引っ張られすぎか。

おまけ

原作の巻末にある穂村弘氏の解説の「読み進むにつれて奇妙なことが起こる。そんなあみ子に憧れ始めている自分に気づくのだ。馬鹿な。ありえない。」にひどく共感。同じ巻末の町田康氏の解説は一読しただけではよくわからなかった。ちゃんと消化できたら追記する。

あ、あと、坊主頭くんは野球部だった。野球部だから坊主頭だった。それと「インド人」の意味もわかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?