163回 櫛にながるる黒髪の


18歳頃から十年近く、髪を伸ばし続けていた。
どこまで伸びるか、気がすむまで伸ばしてみたのだが、膝丈辺りまで伸びたところでだいたい伸び止まり、馬の尻尾のように先細りとなったので、これ以上はもういいかなと満足した。実際のところその長さになると、髪の重量が馬鹿にならず、常に後ろに頭皮を引っ張られている状態で頭が痛くなるためやめたということもある。
28歳の時に思い切って70cm髪を切り、それからいっさい肩より下には伸ばしていない。

今回は髪の話ではない、髪を梳かす道具の話である。
ある程度の長さの髪があれば、殆どの人はなにかしらで毎日髪を梳かすだろう。髪を梳かすことをブラッシングというように、その道具はヘアブラシであることが多い。
ブラシの歴史を辿るとまたそれはそれでいろいろあるが、横に置いておく。
現在我々がヘアブラシと聞いてすぐに思い浮かべる形のものは、ベントパドルブラシと呼ばれるものである。1898年のニューヨークで、アフリカ系アメリカ人の発明家で美容師であったリダ・D・ニューマンが使いやすく清潔なヘアブラシの改良型を発明し、特許を取った。それが今も一般的に使われるヘアブラシの形の元になったベント型ブラシである。
リダ・D・ニューマンは、女性参政権運動を推進する党の主催者の一人であった。そしてその党の有色人種参政権本部を組織していたという。1917年に女性参政権が達成されてから7年後の1924年、リダはニューヨーク市の選挙区の有権者リストで登録有権者として選出される。
「髪は女性の命」などという古臭い言葉があるが、髪を梳かすブラシの発明家は女性に当然の権利を与えてくれたのだ。

古来から人間は髪を梳かすためには、櫛を使っていた。
櫛の形は通常長方形の板であり、その片側に等間隔で細かい切れ込みが入っている。切れ込みと切れ込みの間の部分は櫛の歯と呼ばれる。
歯を備えた櫛は、日本では縄文時代に既に作られていたそうだが、髪を梳くための櫛は奈良時代からとのこと。ちなみにお約束の古代エジプトではもちろん広く使われていた。
髪を長く伸ばして結わずに垂らしていた平安時代は、そうそう風呂に入るわけにはいかなかったので、その長い髪を櫛で丹念に梳かしていただろう。「梳る(くしけずる)」という言葉があるくらい、櫛で髪を梳かすことは日常的な動作だったと考える。
また日本では櫛には呪術的な力があると考えられた。『古事記』でイザナギが黄泉の国から逃げ帰る際、イザナミが差し向けた追っ手の気を逸らすために櫛を背後に投げ捨てるというエピソードもある。

東京上野の池の端に「十三や櫛店」という櫛屋がある。
なぜ十三か。これは江戸っ子の言葉遊びである。クシという読みが「苦死」に通じるということで、「ク=九」+「シ=四」=「十三」としたものだ。
創業元文元年(1736年)という300年近い歴史を持つ櫛屋で、創業時から変わらず同じ場所で営業しているのだという。そしてここでは一番良いとされるツゲの櫛だけを製作・販売している。
ツゲの櫛と書かれて売られているものの殆どは、実は本物のツゲではない。漢字で柘植と書く植物は、日本固有変種のものを指す。黄楊と描くのは台湾に自生するタイワンアサマツゲである。安い価格のものは、イヌツゲやシャムツゲという全く別の植物だったりするので、要注意だ。
ツゲ自体は世界中に存在するのだが、日本のツゲは希少で最高品質であるとされている。それは何故か。
ひとつは木の成長がとても遅く、80年経っても直径が10cm程にしか成長しないため、1本の木から取れる板の数が少ないためである。そしてもう一つがその独特の栽培方法に依る。ツゲはハンコ用にも使われており、主に鹿児島で栽培されているそうだ。まずハンコ用のツゲは5m置き、櫛用のツゲは10m置きに植えられる。それを10年毎に根から掘り起こして南北を逆にして植え直すことで、偏りのない同心円状の年輪が得られるのだそうだ。
気の遠くなるような時間と手間とかけて、何十年も使える一生ものの道具が作られるのである。

髪の長さが一番長かった頃に、この十三やを訪れて櫛を購入した。ツゲの櫛は使い始めて10年まではまだ新品、それを過ぎてやっと自分の櫛として馴染むのだという。
髪の長さが短くなり、日常的にはヘアブラシしか使わなくなったが、いまでもこの時買った櫛は大事に持っている。
久しぶりに出して大島椿油で手入れでもしてみようか。
短い髪でもきっと櫛通りが気持ち良いに違いない。


登場した店名:十三や
→京都にも2軒「十三や」という櫛屋がある。創業は明治8年と明治20年で、上野の十三やとは関係ない。昔から櫛を扱う店の名に「十三や」が多かったのだという。ずっと「とみや」と読んでいたが「じゅうさんや」が正しいそうだ。軽くショック。
今回のBGM:「Kid A Mnesia」by Radiohead
→Disc3を聴くと、リミックスというのはツゲの木を植え直すようなものなのかもと思ってしまう。違うか。

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