第161回 ガラスのスリッパ
いまあなたの家の中には何足のスリッパがあるだろうか。
家の中では裸足一択、スリッパなど存在しない、という人もいるかもしれないが、なにがしらスリッパのようなものはあるという家が多いのではないだろうか。
かく言う私は、スリッパ無しでは足が冷えて到底いられないくちである。
スリッパ。あらためて書いてみると、どことなくユーモラスな語感だ。
元は英語で広く室内履きの靴を意味する「slipper」であるが、それが指している履物は所謂スリッパとは異なる。slip(滑る)が語源だけあり、「足を楽に滑りこませて履ける履物」をslipperと呼んだのであり、そこには舞踏会で履くようなヒールのある靴も含まれる。もちろんslipperは片足の分だけであり、一足ならslippersである。
このslipperというものは、サンダルとはまた違う種類の履物だ。足を覆う面積が少ないことは共通しているが、サンダルはあくまでもカジュアルな外履きである。下駄や草履も一種のサンダルと言ってもいいかもしれないが、こちらはカジュアルばかりでなくフォーマルな場にも履かれるので、やはりカテゴリとしては異なるだろう。
slipperは上履きであっても、スリッパではないのだ。
このスリッパ、実は日本独自のものである。
江戸から明治に変わる時代、多くの外国人が日本にやってくるようになった。その頃の日本には当然ホテルなどないのだから、彼らは旅籠や神社仏閣に宿泊することになる。西洋では一般的に靴を脱いで室内に入るという文化(ちなみにアジア諸国や中東では靴を脱ぐ国が多数派)がない。土足で畳に上がられてはたまらないということで、随分とトラブルが多かったという。
そこで東京の仕立て職人である徳野利三郎が依頼され、試行錯誤して靴の上から履く上履きを考案したのが、スリッパの原型と言われている。この現物は残っていないらしいが、言い伝えによると左右の区別無し・平底・甲の部分のみ覆うという、現在のスリッパに共通するスタイルであったようだ。
スリッパという呼び方の元になったのは、江戸末期にシーボルトが紹介したとか、福沢諭吉が渡航経験を元に書いた本の中に「上沓(スリップルス)」からきているという説があるが、いずれも足全体を覆う今で言うところのルームシューズのようなものである。
そもそも日本では室内で何かを履くのは特別なことであった。普通は裸足かせいぜい足袋、特別に上草履というものもあるが一般的には使わない。
それがどうしてこんなにスリッパが愛されるようになったのか。
ここにカーテンと同様に、昭和30年代高度経済成長期の団地ブームが関係する。団地の床はフローリングであることが多い。それまで手縫いの高級品かビニール製の台所やトイレ用かの二極分化であったスリッパが、衝撃を和らげる底材と豊富な柄の甲布を得て進化し、室内で普通に使われる履物として一般化したのだ。
いまでも他人の家を訪問した際には、玄関に来客用のスリッパが揃えて置いてあることが多い。少なくとも自分用と来客用のスリッパは分ける。そして夏はさらりとしたイグサや竹の中敷、冬は暖かいファー素材というように、季節によって使い分けている人もいるだろう。かく言う私も、夏は畳表で冬はぬいぐるみ様のもこもこスリッパだ。
フリルやレエスでデコラティブに飾られたスリッパも愛らしい。そういえば一時ダイエットスリッパというものも流行った。大腿や臀部の筋肉を鍛えられるという名目だが、なにもスリッパで疲れなくてもと思うのだが。
ホームセンターや雑貨店でも、多種多様のスリッパが手頃な価格で売られている。つい可愛いスリッパをみつけると買いたくなってしまうのだが、足は2本しかない。
お気に入りのスリッパは履きつぶすまで履いているので、来客用のスリッパばかり増えてしまう現象はどうにかならないものか。
そう書きながらも、冬用のふわふわ猫スリッパをネット通販でいそいそと探す私なのであった。
登場した言葉:舞踏会
→シンデレラのガラスの靴は「glass slipper」。舞踏会で踊るためには靴が床の上を滑ることが大事なので、滑らないshoeでは駄目なのだ。それにしてもガラスの靴では踊れないだろうに。
今回のBGM:バレエ音楽「シンデレラ」 セルゲイ・プロコフィエフ作曲 ヴラディーミル・アシュケナージ指揮/クリーヴランド管弦楽団
→もちろんバレエのシンデレラは、ガラスの靴ではなくトウシューズで踊る。
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