204回 Tooth and nail


歯の磨き方ほど時代の変遷を経てきたものはないのではないか。
やれ縦に磨けだの、ローリングするように磨けだの、歯磨きはつけるなだの、半世紀以上生きてきた中で「歯科医推奨」の磨き方はいくたびも紆余曲折を辿ってきた。その都度それ以前の磨き方は駄目だったのだと反省し、新しい磨き方をマスターすべく邁進するのだが、しばらく経つとまた違うやり方がさも最初からこうでなければいけなかったというように自慢げに現れる。
いまだに何が正解なのかよくわからない。

我々はもう自動的に歯を磨くという行為を刷り込まれている。
物心ついた時から教えられ、練習させられる。虫歯にならないように、歯周病にならないように、口臭予防のため、エチケットとして、理由はともかく歯は磨くものだというある種の強迫観念に囚われてると言ってもいい。
朝起きてまず歯を磨く。朝昼晩の食事の後に磨く。夜寝る前に磨く。その他にも、おやつなど何か食べたあととか、外出の前とか、とにかくとりあえず歯を磨いておけばなんとかなる(なにが?)ような気がするのは、習慣というよりはやはりやらないと落ち着かないという気持ちの問題なのだろう。
もちろん歯を磨くという行為にかける時間や熱心さは、ひとによる。おざなりに表面をなぞる程度で満足してしまうひともいれば、念入りに時間をかけていろんな道具を駆使して磨くというひともいる。
私の場合はまあ、一般的な磨き方という程度だと思う。歯ブラシで丁寧に磨けば歯磨きは使わなくても良いという意見もあるが、歯を磨いたぞというさっぱりした感触を得たいので、ミントのフレーバーが入ったオーガニック系の歯磨きを使っている。

ここでいつものように、歯磨きの歴史をおさらいしておこう。
もうおわかりのように、古代エジプトには当然歯を磨くための道具があった。紀元前16世紀頃のパピルスに記述があり、実際に埋葬品からも出土されている。恐るべし、古代エジプト。因みに楊枝を初めて使ったのは、およそ10万年前のネアンデルタール人と言われている。
現在の歯ブラシの元祖と言えるのは、紀元前6世紀頃のインドだ。「歯木(しぼく)」と呼ばれる木の枝の端を咬砕(噛んで砕くということ)してほぐし、それで歯の表面を擦ったのが最初らしい。丁度仏教が起こった頃なので、お釈迦様が弟子の口臭に辟易して歯磨きを戒律としたとかいう、まことしやかな伝説が残っている。
歯木には虫歯を抑制する成分があるニームという木が用いられた。現在もインドやアフリカでは、このニームを使った歯木が使われているそうだ。歯木は仏教と共にインドから中国に伝わる。中国にはニームがなかったので、楊柳(カワヤナギ)の枝が使われた。それがまた仏教と共に日本に伝わったことで、ようじを楊枝(楊柳の枝)と書くのだという。

江戸時代になると、房楊枝というものが現れる。
房楊枝というのはその名の通り、小枝の先端を煮て叩いて柔らかくし、針ですいて房状にしたものである。房の部分で歯や舌の表面を磨き、反対側の尖った部分で歯の隙間を掃除するようにできている。
これが大ヒットして江戸土産とまでなり、一時は浅草寺周辺に200軒以上もの房楊枝屋が並んでいたほどの繁盛ぶりだったというから、驚きだ。

現在の歯ブラシの原型は1498年に発明された。いやに正確なのは記録に残っているからだろう。中国の皇帝が、骨や竹の台に硬い豚の背中の毛を直角のかまぼこ形に植え付けたものを使ったのが、始めだという。
この発明はヨーロッパにも伝わり、当初は馬の毛などの硬さが足りない材料が使われていたようだが、1770年代にはイノシシの毛を使った歯ブラシが大量生産されるようになる。
時代は下り、1938年に米国のデュポン社が新しく発明されたナイロンで作った歯ブラシを売り出した。丁度その頃東アジアが戦争で混乱して豚の毛が入手しにくくなっていたのが理由というから、つくづく必要は発明の母なのだと感じる。

日本で初めて歯ブラシが発売されたのは、明治5年。鯨楊枝という鯨のヒゲを使ったものであった。当時はまだ歯ブラシは歯楊枝と呼ばれていたが、大正2年小林富次郎商店(現在のライオン)が「萬歳歯刷子(ばんざいはぶらし)」を発売したことで、歯ブラシという名が浸透する。
歯磨きがなかった昔は、塩を指につけて磨いていたようだが、江戸時代には「大明香薬砂(だいみょうこうくすりずな)」という、粘土の細かい粒である房州砂に香料を混ぜた粉が売られていたそうである。
明治29年に「獅子印ライオン歯磨」という粉状の歯磨きが発売された。歯磨き粉という言い方があるのは、当初粉状だったからである。現在のようなペースト状チューブ入りのものは、明治44年に同じくライオンから発売されたのが最初である。

一時期電動歯ブラシを使ってみたこともあったが、じっとしているのが退屈で自力に戻ってしまった。いまどこを磨いていると意識しながら丹念に歯ブラシを動かす。今の常識では、歯に直角に毛先を当て小刻みに横に動かすのが正しいらしい。歯垢(プラーク)が溜まりやすい歯と歯茎の間も45度の角度で磨くこと。
かつて一世を風靡した「芸能人は歯が命」というCMがあったが、一般人だって歯は大事である。
漂白したような真っ白の歯ではなく、その人なりの健康的な色であれば良いと思うが、一生自歯(じば=義歯に対して自分の歯のこと)で食べられるように、頑張って歯を磨きたい。


登場した道具:楊枝
→宝永年間創業の300年続く楊枝専門店「さるや」という店が、東京の日本橋にある。子供の頃、このさるやの楊枝が好きだった。渋い趣味だ。使うわけではない。黒文字という木で1本1本手作業で作られた楊枝は、小さな千代紙の袋に収められ、それぞれ異なる都々逸が書かれた紙が巻かれていた。それを読むのが好きだったのだ。お気に入りの都々逸は「三千世界の烏を殺し 主と朝寝がしてみたい」でした。ませた子供である。
今回のBGM:「オーボエ協奏曲ハ長調」by ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト オーボエ演奏ハインツ・ホリガー/アカデミー室内管弦楽団
→歯科医院で流れているBGMは、緊張をほぐすようなクラシック音楽が多い。「モーツァルト効果」なるリラックス作用があるモーツァルトの楽曲が人気だ。なかでもこの曲は高周波が非常に多く含まれているため効果てきめんと言われるが、実は私はモーツァルトが苦手でかえって落ち着かなくなる。何故かはわからん。高周波が苦手なのかも。わたしゃ蚊か。

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