193回 爪に爪なし


この30年以上、爪を長く伸ばしたことがない。
一番の理由は、職業柄見た目にも実際にも清潔を保つために、常に爪を短く切っておく必要があるということである。医学部の学生の頃、外科の病院実習の際に少しでも爪の白いところが残っていると、問答無用で爪切りを渡されて白いところが見えなくなるまで切らされた。
深爪は痛い。半泣きで切った挙句、今度は何かを剥がすなどの動作がうまくできず困る羽目になる。
この爪の先の白い部分はフリーエッジと呼ばれる。ここはわずかでも残しておかないと、手先の巧緻作業が難しくなるのだが、反面不潔にもなりやすいため切らされるのだ。
いまでも白い部分が目立ってくるとすぐに切りたくなるし、実際すぐ切る。

爪は表皮の角質が変化してできた、皮膚の付属器官である。
主成分はケラチンというタンパク質の一種であり、爪はアミノ酸の一種であるシスチンを多く含んでいるため硬くなる。ケラチンから成る組織は角化組織と呼ばれる。表皮の表層細胞にこのケラチンが生成沈着することを角質化といい、角質化によって細胞自体は死んで核は消失する。
髪の毛もケラチンからできていて、髪と爪は親戚のようなものだ。爪も髪も生きた細胞からできてはいない。なので大事にしないと修復できないため、傷んでしまう。
私は爪が自分でも驚くほど頑丈である。硬くて厚い。切る時にはかなり力がいる。あまりにも頑丈であるため、不用意に動くと自分の爪で自分の皮膚を引っ掻いて傷つけてしまい、情けない。入浴後のふやけた肌などは、引っ掻くどころではなく抉って結構な傷になってしまった。
それを避けるためにも、こまめな爪切りは必要なのである。

哺乳類の爪は、平爪、鉤爪、蹄の3種類に分けられる。
人間と猿と同様、平爪だ。指先の先端部分は、骨が爪の中央辺りまでしかなく、その先の骨のない部分は爪が全ての力を支えている。そのため爪がないと指先で小さなものを掴むことができなくなってしまうのだ。爪が短過ぎても薄過ぎても指先に力がかからないため、同様のことが起きる。
足の爪の場合は、安定して体を支え、歩く時に爪先に力を入れて前に進む働きを担っている。手も足も爪がなければ、力を支えることができない。
所謂「爪」と呼ばれているのは、爪甲という部分である。爪甲の下には爪床という皮下組織があり、血管や神経が通っている。爪甲と爪床は密着しているだけで、完全に固定されているわけではないが、ご存知の通り爪剥ぎが拷問の定番であるように、剥がすのは相当痛い。

余談だが、足の母趾の爪が陥入爪になったことがある。丁度救急センターで研修をしていた時で、形成外科の先生が手術してあげるよと言ってくれたので、軽い気持ちでやってもらった。
手術自体はもちろん局所麻酔下で行われる(これも趾間ブロックで直接神経に針を刺されるので相当痛かった)のだが、その麻酔が切れたあとが酷かった。頭痛や腹痛など普通の痛みはある程度波があるものだが、爪の痛みというのは独特で、最大限の状態で数日間ずっと同じに続くのだ。
痛みには強い方なのだが、これにはまいった。鎮痛剤が効きにくいたちなので、悶絶しながら耐えるしかなかった。いまでもこの痛みを越える痛みには出会っていない。

コロナ禍になってから、パルスオキシメーターという器械が一躍有名になった。クリップのような器械で指の先を挟んで、血中の酸素飽和度=SpO2(サチュレーションという)を測定するものである。
医療現場で一般的に使用されているものだが、新型コロナウイルス(COVID-19)の初期の株では感染すると重篤な肺炎を引き起こしたため、この酸素飽和度のモニタリングが重要だった。
健康な人の酸素飽和度は95%以上に維持されている。これが90%を切るようになるとかなり息苦しくなり、85%以下なら酸素投与を検討する。
ところが今回の新型コロナウイルス感染症の場合、血中の酸素飽和度が70%というように高度に低下した低酸素血症になっていても、息切れを起こさない「happy hypoxia」と呼ばれる状態が起こり、重症化の発見が遅れるという症例が多数認められた。
そのため自覚症状に頼らずに、自宅療養となった陽性者はパルスオキシメーターを渡されて、90%以下になるようなら速やかに入院を検討するという対策がとられるようになった。

パルスオキシメーターは、動脈血の中の酸素と結合したヘモグロビンの割合を測定している。指先を挟む器械の内側にあるプローブから出る赤色光と赤外光の2色のLEDを測定部に当て、指先に通っている動脈血の吸光度からヘモグロビンの酸素飽和度を計算する仕組みだ。
プローブから出る光は爪の上から照射され、指の腹側に受光部がある。検出する信号のレベルは非常に小さいため、装着部位の状態が重要となってくる。
救急科のドクターによると、マニキュアの場合はまだ除光液があるのですぐ落とせるが、ジェルネイルやスカルプは取れないため、酸素飽和度が測定できないのが非常に困るそうだ。
足趾でもパルスオキシメーターは測定はできる。生死に関わることなので、手足の爪どこか1箇所だけは、何も付けないでおくことをお勧めする。

たかが爪と侮るなかれ。
爪は全身の健康状態のバロメーターである。今一度自分の爪をよく観察してみよう。
思わぬ不調を早めに発見できるかもしれない。


登場したネイルアート:ジェルネイル
→ツヤツヤ綺麗でもちも良いが、ジェルネイルと自爪を密着させるため爪の表面を削らなければならず、ダメージを受けやすいというデメリットがある。
今回のBGM:「Downward Spiral」by NINE INCH NAILS
→2回目の登場ですが、出さないわけにはいかないでしょう。

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