243回 エスカレーション・デスカレーション


地方に住んでいると、エスカレーターを利用する機会は殆どない。
ごくごくたまに大型の商業施設に行ったりすると、エスカレーターはあるのだが、全ての段に人が乗っていて混み合うなどということは、まず起こらない。ましてやすぐ脇を足早に登ったり降りたりされることなど、皆無と言ってもいい。
久しぶりに上京して東京の公共交通機関を使うと、びっしりと左側に並んで乗っている人の横を凄い速さで追い越していく人の多さに、あらためて驚かされる。なんでみんなそんなに急ぐのだろう。歩くのなら階段を使えばいいのに。階段にしたってたかだか1分と違わないだろうに。
そもそもいつからエスカレーターを歩くようになったのか。
今回はそれを考えてみる。

エスカレーターの起源はそう古くはない。さすがに古代エジプトにエスカレーターはなかった。なにしろ電気を用いる仕組みなので、19世紀後半になって登場した技術である。
1892年にジョージ・H・ウィラーが初めて「自動階段」の特許を取得したが、これは実用化はされなかった。同年にジェシ・W・レノが「傾斜エレベーター」で特許を取得し、ニューヨークのマンハッタン高架鉄道に設置している(ガチャの原型が置かれたのもここだった!)。また1898年にはPiat社がロンドンのハロッズ百貨店に「動く階段」を設置。これらはまだ手すりが動くだけなどの簡単な仕組みだった。
1899年、ウィラーから特許を買い取ったチャールズ・D・シーバーガーが、オーチスエレベーター社と提携して、現在のエスカレーターの原型である「階段式自動階段」を開発し、1900年のパリ万博に「escalator」の名前で出展、一等賞を受賞した。オーチスエレベーター社は、1910年にこの名前を商標登録したので、1950年に裁判によって放棄されるまで「escalator」は普通名詞ではなく、他社は使用できなかった。

エスカレーターをいち早く導入したのが、博覧会、百貨店に続いて、鉄道業界である。大量の乗客を一度に乗り降りさせるのに、エスカレーターはもってこいの仕組みだった。1906年にはニューヨークの地下鉄で、1911年にはロンドンの地下鉄で、それぞれエスカレーターが導入されている。
日本で初めてエスカレーターが登場したのは、欧米の文化技術を紹介するために1914年3月8日に上野公園で開催された、東京大正博覧会だった。エスカレーターの乗車料はかなり高かったが大盛況であったそうだ。なおこれを踏まえて3月8日は「エスカレーターの日」とされている。
この同じ年の10月1日、日本橋三越呉服店(現三越本店)にエスカレーターが設置された。百貨店が最新のものに目敏いのは、どこも変わらないようだ。
初めて日本の駅にエスカレーターが設置されたのは、1925年大阪の新京阪天神橋駅(現阪急天神橋六丁目駅)である。東京はそれに遅れて1932年の秋葉原駅が最初であった。

さて、そこでだ。エスカレーターの片側空けという文化がいつ始まったのか。
通説によると、1944年頃ロンドンの地下鉄駅で、混雑緩和のために右側に立ち左側を開けるよう呼びかけたとされているが、定かではない。この片側空けはその後世界中に広まった。右立ち・左空けが多数を占めるが、東京の他シンガポールやオーストラリアでは、左立ち・右空けが行われている。
日本では高度成長期の1967年頃から、大阪の阪急梅田駅で「お急ぎの方のために左側を空けましょう」という呼びかけを行なっていた。このアナウンスは1998年まで続いたという。
私が暮らしていた昭和の東京では、覚えている限りそういう習慣はなかった。1989年にロンドンに行った時に、地下鉄のエスカレーターで初めて片側空けを知ったくらいだ。
その同じ1989年、東京の地下鉄千代田線の新御茶ノ水駅に長さ41mの当時日本最長のエスカレーターが設置された。ここは隣に階段もないため、エスカレーターに乗るほかはない。どうしても先を急ぐ人は待ちきれず、歩き出すことになる。かくして左立ち・右空けが自然発生的に出現した。
これはクルマの左側通行で右側が追越車線というのが関係していると言われるが、それならなぜ大阪はそうならなかったのか。ロンドン式を継承したのだろうか。謎である。

こうして徐々に大都市圏の公共交通機関で広がっていった片側空けだが、1996年からはむしろ、事故につながるのでエスカレーターでは歩行しないようにという呼びかけが、首都圏の鉄道会社で行われてきた。
にもかかわらず、相変わらず片側空けは無くならない。かえって最近では、両側に乗っているとあからさまに舌打ちをされたり、酷い時は突き飛ばすようにして追い越したりする人もいる。
小さい子供連れの人はどうしても子供と手をつないで乗りたいだろうに、それも叶わずわざわざ別の段に移動させなければならない。片麻痺など身体に不具合のある人も、どちらかの側でなくてはバランスが取れないかもしれないのに、危ない側に立たざるを得ない。
東京駅の中央線のエスカレーターは傾斜がきつい(ように思われる)のだが、私の経験でもスーツケースを持って降りる方に乗った際に、後ろから右側をバタバタと歩いて降りてくる人に突き飛ばされそうになったことがあり、とても怖かった。

2015年にロンドンの地下鉄で行われた実験によると、片側空けと両側立ちとどちらが効率的かを比較したところ、両側立ちの方が圧倒的に効率的だったそうだ。
効率はともかく、急いでいるので早く先に行きたいという人もいるだろう。階段がなくエスカレーターだけという場合は、それも仕方ないかもしれない。だが混んでいる時ならともかく、空いていて何人も乗っていないような場合に、お行儀よく片側に寄っているのは、なんだか滑稽だ。
本当なら臨機応変に、混んでいる時は片側空け、空いているなら両側立ちにすればいいだけの話である。

1分1秒を争わなければならないことは、そうはないのだ。ただ単に気分的に急がなければならないと思っているだけなのではないか。
実際ただでさえエスカレーターの転倒事故は多い。歩かず手すりに掴まって慎重に乗った方が安全であることは言うまでもない。
少なくとも、百貨店の空いているエスカレーターはゆったりと乗りたいものだ。
常に上昇を目指しエスカレートするだけが、人生ではない。


登場した言葉:エスカレート
→動詞の「escalate」は、「エスカレーターを使って上に登る」という意味で1922年にできた新語。そこから「徐々に増大、または悪化すること」を意味するようになった。いまでは「エスカレートする」はカタカナ英語として日本語に定着している。
今回のBGM:「エスカレーターはいそぎすぎないで」by 横濱シスターズ
→日本エレベーター協会が作成した、エスカレーター安全利用の歌である。エスカレーターに乗る際には、ぜひ思い出してほしい。


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