第108回 シルクの似合う夜


自宅の周りにはクヌギ林がある。
元々この辺りは天蚕の飼育林として200年以上の歴史があるところだ。赤松や杉とともに、天蚕の餌となるクヌギやナラといった樹木が群生していたため、天蚕は自然に多数生息していたそうだが、それをはじめて人工飼育したのが、ここの地区であるとされている。天明年間というから、1780年代のことだ。
天蚕はヤママユガ科に属する蛾の幼虫である。因みに通常の蚕は家蚕と呼ばれ、カイコガ科に属する。蚕は野生には存在しない完全に家畜化された昆虫であり、その飼育の歴史は5000年前の中国大陸に遡れる。絹糸腺を持つ昆虫に、天蚕と同じヤママユガ科のテグスサンがいるが、釣り糸に使うテグスは「天蚕糸」と書き、昔はテグスサンから取れる糸を使っていたのが、現在のナイロン糸にもその名前が残っているのであった。
天蚕の繭から取れる絹糸は、独特の光沢を持つ萌黄色をしており、「繊維のダイアモンド」と呼ばれている。染料に染まりにくいため、自然の色を活かした織物に使用されるが、丈夫で軽くて柔らかく保温性に富むという特徴があり、大変貴重で高価なものである。

一方のクヌギは、広く日本に分布している落葉広葉樹で、里山の樹木として愛されている。ブナ科コナラ属、古くは「つるばみ」と呼ばれていた。他のブナ科の樹木とともに、ドングリが生る木としても有名だ。
クヌギのドングリは、直径が2センチあまりと比較的大型で、形はほぼ球形である。クヌギの花は雌雄別の風媒花で、実は受粉した次の年に成熟する。つまりドングリは2年越しで生るのだ。
秋も深まった風の強いある日、このドングリが降る夜がある。「コンッ」と一粒屋根に落ちて「コロコロ」と転がるそばから、次々と落ちていくその音は、まさにドングリが降り注ぐと言っても良いような迫力がある。
次の日庭中に落ちているドングリを、バケツに何杯も拾ったことがあったが、不思議なことにこのドングリは豊作の時と不作の時の差が激しく、昨年はわずかしか落ちてこなかった。さて今年はどうだろう。
クヌギは昆虫に大人気の樹木だ。幹から滲み出る樹液には、カブトムシやクワガタなどの甲虫がよく集まるので、かつては毎年夏の夜になると、灯りに惹かれて窓にカブトムシがぶつかってきて驚いたものだった。最近は業者による乱獲が祟ったのだろう、殆どそのような大型の昆虫の姿を見なくなって寂しい。

クヌギのような落葉広葉樹は、四季の変化がダイナミックだ。
初夏の頃いっせいに若葉が芽吹くと、眩しいほどの新緑となる。それが徐々に緑が濃くなり、真夏の一番暑い盛りにはそれは沢山の葉が生い茂って、気持ちの良い木陰を作ってくれる。屋根にもその影が落ちるため、家の中もあまり暑くならないですむ。クヌギの樹高は20メートルにもなるため、林の中は下界に比べて明らかに気温が低い。
秋になると紅葉して、冬にはすっかり葉が落ちる。すっかりと書いたが、実はクヌギは完全な枯れ葉になっても離層が形成されないため、ずっと枝に枯れ葉が付いたままであることも多い。それでも大多数の葉は落ち葉となり、庭を埋め尽くす。これがまた良い腐葉土となるのだ。葉が落ちた林は日当たりが抜群になり、冬の日照を余すところなく届けてくれる。
樹高が高くなっても、クヌギはあまり太くならない。しかしこんなので大丈夫かという程細い木であっても、押しても引いてもびくともしないことに驚く。それは地上に出ている部分の何倍もの太く長い根が、地中に縦横無尽に張って支えているからなのだ。
硬く厚い樹皮に耳を当てると、樹木が水を吸い上げる音が聴こえるような気がする。しなやかに伸びるその枝葉が風にそよぐ姿を見上げながら、梢を渡る風の音に季節の変化を感じるのが好きだ。

クヌギの落ち葉がふかふかと敷き詰められた秋の庭には、例年1〜2個の天蚕の繭が落ちている。それはそれは鮮やかな萌黄色の繭にはぽっかりと穴が空いており、無事羽化したことがわかってほっとする。
美しいだけでなく、丈夫で暖かく皺にならないという天蚕の糸。
細く繊細にみえて、実はしなやかで揺るぎないクヌギの木。
少女性というものも、奥に秘めた強靭さこそが大事なのではないかと思っている。


登場した昆虫:家蚕
→真っ白でふわふわのカイコガの成虫の可愛さは、他に類を見ない。翅があっても飛翔に必要な筋肉が退化して飛べないなんて、泣けるではないか。
今回のBGM:「夢がたり」by 久保田早紀(現・久米小百合)
→往年の大ヒット曲「異邦人」は最初シングルで発表され、「異邦人−シルクロードのテーマ」というサブタイトルが付いていた。

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