298回 まんじゅうこわい


あなたは肉まん派ですか?それとも豚まん派?
これはもう地域によってはっきりと異なるのが明らかだ。東日本は肉まん、西日本は豚まんなのである。私は東京生まれなので、肉まん以外のなにものでもなかったのだが、長じて関西に行った時に「豚まん」という言葉を初めて聞いた。そして豚まんというからには「牛まん」「鶏まん」もあるのかと思ったが、当然そんなものはない。
西日本に於いて、肉といえば牛肉を指すのだと知ったのはその後である。では他の肉はなんと呼ぶのかというと、豚肉は豚肉と呼び、鶏肉はかしわと呼ぶのだという。東日本というか東京では、肉といえば全ての肉を指すので、なんの肉かはっきりさせたければそれぞれ牛肉・豚肉・鶏肉と言う。どちらが合理的なのかはわからない。どちらもそういうものだというだけなのだろう。

西日本が牛肉圏で、東日本が豚肉圏だというのは、肉じゃがの作り方にはっきり現れている。
東京では、肉じゃがといえば豚肉に決まっていた。給食に出る肉じゃがも当然豚肉だ。それが関西から九州にかけては、肉じゃがは牛肉だそうだ。これを知った時はかなり驚いた。かくも地方によって常識だと考えていることは異なるのだということを、思い知らされた。大袈裟だろうか。いや、それほど違うのだと言うことは、肝に銘じておいても損はない。
串カツに関しても同様の相違がある。関東で串カツといえば、豚肉とタマネギが交互に刺さったものを指すが、関西の串カツの代表的なものは牛肉である。その他にも様々なものを刺してソースをつけて食べる「串カツ文化」と呼べるものが大阪を中心に存在するが、東京にはそのようなものはない。だいいち東京の串カツは、衣がついて揚がっている。最早単に肉の種類だけでなく、違う料理だ。
話はずれるが、最近北海道で「焼き鳥」と言えば豚肉を串に刺したものを指すと知って、とても驚いた。北海道の中でも函館を中心とした道南地方で一般的らしい。日中戦争の時、軍靴の材料として豚革の需要が高まり養豚が盛んになったことから、彼の地では豚肉が安価で手に入るようになったのが理由だという。この場合鶏肉を使った串は「鶏の焼き鳥」と言うのだろうか。

話は戻るが、なぜ西日本は牛肉で東日本は豚肉になったのか。
昔から日本では「西の牛、東の馬」と言われ、農耕や運搬に用いる使役動物として、西日本では牛、東日本では馬が一般的だった。これはそもそも和牛が寒いところが苦手だったからだそうだ。
明治維新以降、日本でも肉食が普及し始める。代表的な「すき焼き」は牛肉だ。農耕などに使われていた牛は機械化に取って代わられ、代わりに食用としての存在感が増した。神戸に居留していたイギリス人が和牛を解体して食べたのが始まりと言われているが、これがのちのブランド牛である神戸牛につながる。
牛に比べて馬は、はっきりいって食べられる肉の量が多くない。肉の需要の拡大に馬では対応できなかった。ではどうやって対応するかとなった時、肉が沢山取れる豚にスポットライトが当たる。もとより関東は水田が少ない畑作地帯だったので、サツマイモや麦を飼料とし堆肥も採れる豚の飼育が広く普及したのだ。大正年間には養豚ブームが巻き起こり、東京周辺の農村地帯は一大養豚地帯として発展したというから、牛肉に比べて安価な豚肉は大人気だったのだろう。
ハイカラな洋食として当時東京で人気を博した「ポークカツレツ(トンカツのルーツ)」や「ポークカレー」も、その名の通り豚肉を使った料理だ。
因みに吉野家でお馴染みの「牛丼」。これも上記の呼び名の法則通り、西日本では「肉丼」と呼ぶのが普通らしい。関西に於いて、肉はあくまでも牛肉なのである。

さて肉まんと豚まんについてはよくわかった。両者ともそもそもは「中華まんじゅう」と呼ばれていたように、中国から伝わった食べ物である。
肉まん(便宜的にこちらの名称に統一する)の発祥には、かの諸葛亮孔明が関わっているとされる。『三国志演義』によると、蜀が南蛮を平定した帰路で、瀘水という川が荒れ狂い渡ることができず、軍隊が足止めされてしまった。それを見た地元の人が「川の荒神に49人の首を捧げれば氾濫は静まるので、これから集めてきましょう」と進言したとのこと。蜀の宰相であった孔明は「戦で沢山の人命が失われたのにこれ以上殺させることはできない」とそれを退け、料理人を呼んで「小麦粉を捏ねて中に肉を詰め、人の頭の形のように丸めたもの」を作らせた。それを川に投げ込んだところ氾濫は鎮まり、蜀軍は無事に川を渡ることができたとされる。
これから小麦粉を捏ねて中に羊や豚の肉を入れて蒸し上げたものを「蛮頭(蛮族の頭の意味)」と呼ぶようになり、最初は川に投げ込んでいたが、勿体無いので(ここが現実的)供えた後で食べるようになったため、「蛮頭」が、食べ物を意味する「饅」の字に変わって「饅頭(マントウ)」と呼ばれるようになり、食べやすく小型化していったそうだ。

日本の饅頭の歴史には、2人の人物が関わっている。
ひとりは僧侶の龍山徳見。彼は1305年に中国の元に渡って臨済宗を学び、1349年に帰国した。その40年に及ぶ留学の間に徳見に心酔した俗弟子の林浄因が、もうひとりの立役者だ。林浄因は徳見の帰国時一緒に日本に渡った。ふたりが帰国&来日した1349年が、日本に於ける饅頭発祥の年とされている。
徳見禅師はその後足利三代の将軍に重んじられ、南禅寺など名だたる寺の管主となるとともに、広い階層の人々の尊敬を集めた。
林浄因は奈良に居を定め、仏教の風習として広まりつつあった喫茶の際にふるまう点心として、饅頭をヒントに新しい料理を発案した。肉や脂を使わず、小豆を煮詰めて甘葛の甘味と塩味を加えて餡を作り、これを皮で包んで蒸上げたものを寺に卸したのだ。当初は饅頭と書いて「まんず」と呼ばれ、その後「まんじゅう」になったのが、現在の饅頭の原型である。
甘い食べ物が少なかった当時、この食べ物は「奈良饅頭」として大人気になり、朝廷にも献上されるようになった。林浄因は饅頭屋として有名になるが、帰国後も交流のあった徳見禅師が亡くなると、寂しさに耐えかね望郷の念に駆られて、妻子を残して中国に戻ってしまう。
その後林家は京都と奈良に分かれ、一族は「塩瀬」を名乗るようになる。戦乱の世でも、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と錚々たる面々に饅頭は愛され、江戸に渡った塩瀬は将軍御用達となった。
塩瀬の饅頭は700年近く経った今でも「塩瀬総本家」として健在だ。始祖の林浄因は、奈良の林神社に「饅頭の祖」として祀られている。

現在の中国で「饅頭」と言えば、具の入っていない蒸しパン状の皮だけを指し、我々が言うところの「中華まん」は「包子(パオズ)」と呼ばれる。
中華街に行くと、店によって微妙に具の種類や配合が異なる肉まんが売られていて、食べ比べるのも楽しい。あんまんは、日本の饅頭とは違うすりゴマとごま油で練られた餡で、これはこれで美味しく、区別をつけるため上に赤い印が付いているのが可愛らしい。
日本の中華まんは、新宿の中村屋が発祥という説が一般的である。1927年に「天下一品支那饅頭」という名前で売り出された。
今では冷凍食品からコンビニの店頭まで、肉まんもあんまんも簡単に手に入る。カレーまんやピザまんなどのバリエーションも増え、国際色豊かになった。小腹が空いた時のおやつとしても、完全食としての食事としても、肉まんは美味しく栄養価が高い頼もしい存在だ。
ここはやはり電子レンジではなく、しっかり蒸し器で蒸して、熱々でふわふわの状態にしたい。
あ、私は肉まんには何もつけません。ではいただきます!


登場した人物:林浄因
→彼が中国に帰ってしまった後も、林家は有名な僧侶や学者を何人も輩出する。7世の孫にあたる林宗二は、奈良塩瀬の宗主であり、戦国時代全編を生き抜いた饅頭屋であった。と同時に学者としても名を成し、論語や漢詩を出版する出版人でもあったのだ。彼の本は「饅頭屋本」として人気だったという。中でも歴史に残る業績としては、当時の印刷技術を使って日本で最初期の国語辞典「饅頭屋本節用集」を出版したことであり、日本史の教科書にも掲載されている。恐るべし、饅頭屋。
今回のBGM:「夜来香」by テレサ・テン
→中国の民謡や古歌を元に欧米の楽曲を参考にして、黎錦光が作詞・作曲。1944年に満州映画協会のスターであった李香蘭(山口淑子)が歌い、中国でも日本でも大ヒットとなる。テレサ・テンの中国語バージョンは、柔らかくふくよかな彼女の声に合っていて耳に心地良い。


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