詩のひとりごと 1. 日本語の詩
私の好きな事のひとつに音楽があります。若い頃は演奏もしましたが、現在は専ら作曲に勤しんでいます。
結婚した後、知人にすすめられて創作童謡を作曲する様になりました。妻が作った童謡詩に曲をつける、という作業を通じて「詩」というものを意識する様になりました。
童謡詩作曲をし続けて10年も経つと、自分でも「詩」というものを書いてみようと考えるになり、更に10年。私は文学史をなぞる様に詩に取り組んできました。
日本に漢詩が入って来た頃は、憧れの大陸文化を目の当たりにした先人達は、日本語ではそのような文学を実現する事が困難である事をよく知っていて、無理に詩を作ろうとはせず、和歌に磨きをかける事に目を向ける様になりました。以来、江戸時代の終わりまで、詩といえば漢詩、大和言葉では和歌を嗜むのが文化人の常識でした。
明治になって、西洋の詩を読んだ先人達は驚愕する事になります。言語は異なっていても、漢詩と共通する「詩」としての特徴、即ち詩としての作法に従って書かれ、持つべき特徴をすべて備えていたからです。「これは異なる言語だ。だが、まぎれもなく詩である」と認めざるを得ませんでした。
西洋の詩は長大で美しく豊富な内容を含んでいました。しかも、その大部分が日常生活で使う普通の言葉で書かれていたのも驚きでした。漢詩も和歌も、日常の言語を使う文学ではなかったからです。
西洋詩を日本の人々にどう紹介するか。これは当時の文化人たちにとっては大問題でした。明治初頭までの日本語の日常語、すなわち口語は、「お国訛り」と言われる様に、どこを見渡しても方言だらけで、全国規模で統一された「標準語」は存在しなかったからです。
つまり、現代日本で日常的に使われている様な標準語は無く、全国で共通表現として通じるのは文語体や漢文体の書き言葉でした。従って、西洋詩の和訳が文語体になってしまったのも、ある意味当然の結果でした。
「新体詩抄」が発行されたのは明治15年。それは、俳諧連歌でもなく短歌でもなく漢詩でもなく、雅あり、漢語あり、日常語ありの新しい体系の詩、と名付けられたのです。しばらくの間、新体詩は一世を風靡します。標準語の必要性が上田万年により説かれるのは明治28年、文部省に国語調査委員会が設置されたのが明治35年になってからのことです。その後、新体詩は標準語の成立とともに衰退していきます。
標準語とは何でしょうか。言語として見るなら、それまでの日本でにはなかった、超方言的な口語として設計され、制定され、なかば強制的に国民に浸透させた、間に合わせの、いわば出来損ないの言語です。
標準語に求められたものは、西洋列強に対応出来る事務処理(翻訳含む)機能、舐められない程度の格調高さを備え、国内においては軍隊で、別な地方出身者同士でも意思疎通が出来るようにすること、などがあります。
このような標準語に文学が作れるでしょうか?
当然、誰もそのような事を期待してはいませんでした。しかし、言文一致運動が置きて、口語体で文章を書く、という事が普及する様になると、小説を始めとして様々な事務的でない文章が書かれる様になります。その流れ野中、「新体詩とは謳っているが、実体は長歌の焼き直しではないか」という指摘と批判がなされ、新体詩の時代はあえなく終わりを告げます。
この後、いわゆる口語自由詩というものが台頭し、詩は、詩語や特殊表現を使った一部の文士や芸術家の嗜みではなく、日常言語を使った一般市民の表現手段へと、変貌を遂げるはずでした。しかし、それは、言語の担い手の裾野が拡大した、というだけで、詩という言語表現方法の確立までは及びませんでした。
新体詩には、まがりなりにも西洋詩の日本文化への輸入の試みとしての位置づけがありましたが、口語自由詩にはありません。そもそも日本語には西洋詩や漢詩のように3000年にも及ぶ定型や作法の歴史の積み重ねもなく、近代に登場した散文詩の外見だけを真似して「自由詩」と名乗ってみても、所詮は砂上の楼閣にすぎないのです。
私には、現代詩はその流れをそのまま引き摺っている様に見えます。ただ、詩壇の動きは頼りなくても、日本語詩にも新しい動きが見られます。そのひとつはラッパーの存在です。日本語ラップはリズム感、アクセント、押韵を備えていて、様々な形で音楽とも融合し、ひとつの文化的潮流を作っているのは確かです。口語自由詩、その後継である現代詩のお歴々よりも、よっぽど日本語の詩の発展に寄与していると私は思っています。ただ、リリックの内容は必ずしも芸術的とは言えません。日本語に限らずラップのリリックはだいたい小学校2年生以下のレベル、という統計が出ている位で、余り傾倒して程度の悪い言葉使いに染まるのはもったいない気がします。
もうひとつ、注目したいのは連句のグループの中にいる、連句を使って西洋詩のソネット形式を実現している人たちです。連句、即ち俳諧連歌の形式を踏襲しつつ、百韻とか三十六歌仙とかではなく、西洋詩の詩型に合わせて十四韻を一首とし、ソネットのパターンに合わせて脚韵も踏んでいるというものです。
私自身はというと、試みとしては、詩型を融合して別な詩型に見える形の詩作を試みています。例えば、七五調+七五調を1行とし、これを2行で一聯として数百行を超えるバラッドを作ったり、同様に、旋頭歌の片歌を一詩行とする2行聯バラッドを作ったり、さらにこれに甚句形式を織り交ぜて、3000行を超える叙事詩、なども作っています。
また、古代ペルシャの詩型であるルバーイイ、ルバイヤートを一見すると旋頭歌の連詩に見えるが実はルバーイイ、というものも作っています。ルバーイイは1,2、4行目で脚韵を踏むので七言絶句と同じ。英語7音節で書けば英語の七言絶句にも見えて面白いです。
日本語で詩型を作っても云々、言語的に脚韵は無理云々という文句をすぐに物知り顔で口にする人は山ほど見ましたが、彼らに言いたいのは、西洋や中国3000年の詩の歴史に匹敵する創意工夫や努力を積み重ねた上で言ってるのか、という事です。標準語が出来てたかだか百年ちょっと。日本語の詩らしきものが作られ始めて、いったいいかほどの試行錯誤を重ねたでしょうか。駄作結構。今はまだまだああでもない、こうでもない、と色々な事を試す時ではないか、と私は考えています。日本語の詩が確立するのは1000年位先かなあと思います。
以上は自分が日頃心の内で思っていることです。それを他人に押し付ける気も、他人から間違っていると言われて修正する気もない事をお断りしておきます。未来の日本語詩に栄光あれ!