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#1日1句俳句写し をはじめてみた


◇#1日1句俳句写し

1日の始まり、朝の静寂の中
慌ただしく動き出す前の10分間を
俳句を書き写す活動にあて始めて1年になる。

写した俳句にまつわる思いを、Twitterの140字で綴ってきたけれども、1年の節目に振り返りをしてみようとnoteを開いてみた。

◇俳句を詠む とは


自分にとって、いまでは
俳句=シャッターを切る行為
になっている。

「良い」と感動した景色や花の彩り、
忘れたくない心の動きを言葉で
写真のように残す行為

俳句写しを始めるまでは
句を詠むことは
「無から有をうみだす行為」として
敬遠していた


しかし、写しを続けることで
その認識が変わってきた。

初期の俳句写し。元々、字を綺麗にしたいという目論見もあった。かなり癖があるのは自覚している。


◇"借り物"としてのことばの収集


SF(ストレングスファインダー)で
"収集心"がNo. 1である自分にとって、
「素敵だな」と思ったものを刻み、
残す行為は本能的なものなのだろう。

しかし、"抽象偏重"且つ、
言語化が苦手な自分にとって、
言葉で思いを表現することは
ハードルの高いものだった。

自分の感情をうまく表現するのが、
ながらく上手ではなかった。
言葉少なで誤解をうむこともあれば、
「わかってくれる人にわかってもらえたら良い」
と諦める自分もいた。

そこで、
表現下手な自分にうまくはまったのが、
言葉のプロフェッショナル達が残した17字から、
自らの心情をのせる言葉を借りて写す行為
"1日1句俳句写し"だった。

◇わたしの好きな季語


きっかけは
川上弘美さんの『わたしの好きな季語』。

書店で偶然目に入り、
吸い寄せられるように手にとった。

それまでプレバトで俳句に触れることは
あったものの、
「自分には俳句を一からつくることは難しい」
と他人事のように楽しんでいた。

川上弘美さんは、本の中で、
季語と、その季語を含む俳句をとりあげながら、
連想される自らの思い出を語る自由な(良い意味で)エッセイとして綴られていた。

キュレーションとして、季語や俳句を楽しむ、という術もあるのか。

弘美さんのエッセイを読み進めるにつれて、
「自らも季語を学びながら、俳句を知りたい」
そんなことを考えるうちに、

「朝の瞑想」×「俳句キュレーション」×「筆写し」

という活動が、頭の中でポーンと浮かび、
「これは楽しいぞ」と1人遊びに思いついた
子どものように、わくわくした。

それが、1日1句俳句写しの起案。始まり。

早速、文具店や書店で、
俳句を書き綴るノートと筆を求めた。

◇写し続けてみえたものとは


まず、季語を通して、
言葉や日本語の美しさに惹かれた。

好きな季語の1つ“風薫る"。春の"風光る"とあわせて。みえないものにも季節を感じて表現する感性が素敵。


季語は本当に面白い。

俳句を写す活動だけれども、
自らの筆を動かす原動力はやはり
「この季語好き!」という季語を収集する
モチベーション
だったように思える。

365日の、日々の極薄の変化を楽しむ

その変化を写真のように色や匂い、
更には温度をつけて刻むことのできる季語の魅力。
日本語の魅力を再認識した。

また、ひらがなを中心に、
筆で大事に綴り続けることで、
自信のなかった自分の文字が好きになった。

(好きなひらがなは、"る"、"す"、"く"、"て"。
 "ふ"、"ぬ"も楽しくて気に入っている。
 自分の名前でもある"も"は、難しい。)

最後に、誰かの言葉を写しながら、
写し鏡のように「自らの眼がうつすもの」を
再認識したり、
自分の中に言の葉が積もっていく感覚が生まれた。

365日写す中で、1年目の自分なりに
さまざまな時代の俳人の歌に触れて、

「こんな俳句って自由なんだ、面白い!」
「こんなユーモアのある俳句詠みたい」
「あぁ、気がつけばこの方の俳句に惹かれてばかり」
という自分の好きの写し鏡をみたり、
俳句界での推しがうまれたり。

なかなか楽しんでいる。

僭越ながら、
最も多く写したのはどなたの句?と数えてみた。

その結果は、



次のnoteで触れてみたいと思う。
(言わんのかい)

◇1人遊びのはずが拡がった世界


少し欲張って、もう少しばかり、
筆足を伸ばしてみる。

俳句写しを始めて1年。

フィジカルに世界を旅したり、
転職をしたわけではないけれども、

本人の中では言語のインプットフィルターと
出力・アウトプットが変わったことでの
内面上の旅が刺激的に行われた1年であった。

いや、物理的な旅も、
していないことはない。

表現を求める行為の中で、
気がつけば幾度か列車に揺られていた。


1つは、
自分にとってはとてもリンクする形で、
コンテクストデザイナー渡邉康太郎さんの
「表現力」を哲学する講座、別名
「超絶豪華なお絵かき教室」(わたしが勝手に呼んでいる)に参加できる機会があり。

そこで憧れの方との夢のような学びの場、
そして、想像していなかったような
素晴らしい仲間との出会いがあった。

オンラインで学び合った関係性だったけれど、
ついにオフラインでも会って、街歩きをともにしたり、一緒にお酒を共にしたり。
(会えないメンバーとも本やお酒を送り合う仲になったり。)

大人になってこんなに互いを応援しあえる
クラスメイトと出会えるとは思わなかった。

自らの1人遊びとしての小さな取り組み、
#1日1句俳句写しが、
推しや仲間に「面白い」と言ってもらえたこと、
それをきっかけに、実生活でも俳句写しの話をするようになれた。

康太郎さんの掲げておられる
コンテクストデザインの魔法はすごい。
こちらもまた、改めて詳細に取り上げたい。


もう1つの旅として、
夏に俳句のメッカである愛媛・松山へ
俳句ポストと句碑巡りの旅に出掛けた。

街を歩けば、現地の中学生が投稿した俳句が
風鈴の短冊として飾られていて、のっけから
感激した。

俳句の英才教育をするなら松山。
電車の中にも投句できるように俳句ポストがある、
いつでもどこでも、17字が生み出されている。

(エノテカのバーテンさんとワイン片手に話していたら、松山市民全員が俳人ではない、とのこと。
けれど、季語の話で大いに盛り上がったので、ことばを大事にする市民性はきっとあるのだろう。
ちなみに、わたしの母は愛媛出身。
わたしの句への添削もいつも、手厳しい。)

子規堂にて投句した、俳句ポスト。
愛媛について汗だくで直行した場所。
子規堂の机をかりて、詠みためた句を投句。
駅から遠くにある句碑もみるべく走り回った
分け入っても分け入っても青い山/種田山頭火
真夏の炎天下、UVカットパーカ、サングラス、日傘で句碑巡り。片道30分近くあるような石も探して。


話は最後、オンラインの旅に。

SNS上でも、
日々黙々と写した俳句にいいねをくださる方々とも、
緩やかな感情の共有をすることを通して、
自分にとってデジタルサードプレイスとなっていた。

実際、わたしみたいに写すのではなく、
毎日、俳句や短歌を詠んでおられる方々もいて
憧れるとともに、自らの創作意欲にも刺激を与えられている。

いつかは、自らも詠むことで参加できる世界があることを、近くに感じ始めている。

◇借りることばがなく、 #詠んでみた 

そう、創作とは写しの行為をシャワーのように自らに浴びせることで、
気がつけば内側から自らの発露として湧き出るものなのやも。

自分にとっては、
借りることばが蓄積して溢れたとき、或いは、
借りることばがなくなったときが、
自らの #詠んでみた の出番なのである。

1年目、#詠んでみた 数は16句だった。
あくまで筆で詠んだものだけカウントになるけれども。

2年目は #詠んでみた の数が増やせるか?
それとも更に素敵な俳人との出会いで
ことばを借りる楽しみに浸るか、

兎にも角にも、
1周出来たことを祝しながら、

そろそろ語りをしめることにする。

来年は うさぎ年 だしね!(関係ない)

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