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43歳の休日 〜さとうきび企画3 立ケ谷にて〜

前回のさとうきび企画では、さとうきびと草堂寺のお話をしました。その話の中で民蔵さんの墓石が草堂寺にあったという話をしたのですが、さて今はどこにあるのかということです。

私の母親は、白浜の立ケ谷というところで生まれ育ちました。まだ、”ふなつき(船着き)”という名前で呼ばれるようなところだったそうで、おそらくは大正時代にはまだ、霊泉橋という橋もなくて、船が湾の中まで入ってくることができたことから、そのように呼ばれていたようです。

立ケ谷の名前の謂れは、かつて神武天皇が熊野へ攻め込もうとした際に、時化がえらくて海を収めるために太刀を放り込んで、凪いだということがあったようです。その太刀をおまつりしているということで、太刀ケ谷神社と呼ばれるようになって、転じて立ケ谷と呼ばれるようになったと聞いています。

私が子供の頃は、お祭りも盛んで、お米をつぶしてつくった団子の「おしとぎさん」と言うのが入ったお味噌汁を飲んだ記憶があります。

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母親の実家は、霊泉橋の東詰の辺りで鍛冶屋を営んでおりまして、そこから寒サ浦向いてのところに家と畑がありました。今、試行的にさとうきびを栽培しているのはその畑でやっています。

さて、墓石についてです。そうした母親の郷里でもあった立ケ谷の奥に我が家のお墓があります。民蔵さんの墓石はもともと草堂寺にありました。長年に渡って地域の方々には大切に扱っていただいていたようですが、私たち子孫がまったくそのことを知らず、供養もできていませんでした。そうしたことから、父親はねんごろに供養をして大切にしたいとの思いもあって、我が家のお墓のそばに持ってきています。

近場にあることは良い面はあって、父親の気持ちもよくわかります。そうした思いも含め、いろんな経緯を考えると、この墓石は本来あるべき草堂寺に戻るべきだと思っています。先日、区長さんともお話をさせていただく中で、地域のみなさんに大切にしていただいていたことをつくづく感ぜずにはいられません。また、文化財的な価値もあって、それはやはりあるべきところにあるのがいいものです。

さて、墓石に戻りまして、墓石には何が書いてあるかと言いますと、讃岐からやってきたこと、この地に白砂糖の製法を伝えて、益をもたらしたことなどを書いています。高祖父は讃岐国阿野郡新居村からやってきたと伝えられています。高祖父は独身でこちらにやってきたのでしょうか、もしかしたら国に妻子を残してきたのかもしれません。香川での松井さんは今どうしているのでしょうか。探求したい気持ちが尽きることはありません。

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さとうきびを栽培する。墓石を草堂寺に戻す。香川の松井さんを探す。

今、私が考えている「さとうきび企画」は上記の3つを達成することです。今はコロナ禍であり、仕事も多忙ですからなかなか動けませんが、気持ちだけは前向きに頑張っていこうと思っています。

#43歳 #休日 #さとうきび #草堂寺 #立ケ谷 #讃岐 #白砂糖


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