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私はどじょうになりたい

どじょう屋からどじょうが逃走している。わらわらヌメヌメと、膨大な数のどじょう達がどじょう屋の表玄関から這い出し続けているのだ。あっという間に通りは黒光りするどじょうの帯に埋め尽くされてしまった。やめてくれ。私はその光景を眺めながら、声にならない叫びをあげていた。私はどじょう屋の主人。今もの凄い勢いで道路に這いだし続けているどじょう共は、私の大切な財産なのだ。どうしてこんなことになった?私は人知れず頭を抱える。今日が私の店のオープンの日だった。厳しいどじょう修行の日々が走馬灯のように脳裏をかすめていく。これだけのどじょうを集めるのに一体どれほどの時間と金を費やしたと思っているんだ?それもこれも、全ては無駄となってしまった。我知らず涙が流れる。どじょう、どじょう、どじょうの河が往来を流れてゆく。通りの家々から住民たちが出てきて、その有り様を戸惑ったように眺めている。おい!お前ら!ぼーっと見てるくらいならとっととザルでも持ってきてどじょうすくいでもやれよ!私は血走った目で彼らをひと睨みすると、再びどじょうの河に視線を戻す。ああ、どうすればいいんだ?唇が震え、涙が頬をはらはらと流れ落ちる。どじょうはいいなァ…ちっちゃな頭に可愛い脳みそ。ヌメヌメと、泥の中をただのたくっていられれば満足なんだろうなァ…俺も、俺もどじょうみてぇになりてぇなァ…

あぁ、そうだった。何故これほどまでに血のにじむ努力をして私がどじょう屋になったのか、たった今その理由を思い出した。幼い頃から、どじょうは私の憧れだった。泥の中でうごめく汚らしく地味な姿、しかし捕まえて泥を拭えばその肌は意外なほど艶やかで美しい…私は、どじょうのような人になりたかった。いや、そうではない。私はどじょうそのものとなりたかったのだ。そのことを、この破滅的な出来事が思い出させてくれた。

私は…私は、いっそ、どじょうになりたい。

乾ききった眼を見開き口許には薄く笑みを浮かべながら、私はどじょうの河を見つめ続ける。どこまでも、いつまでも…



どじょう屋の主人の行方は、その後、誰も知らない。


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