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本日記『私という運命について』

文学好きの同期から薦めてもらった一冊で、通勤退勤の電車の中で、ゆっくり読み進めた。

「愛する人の人生に寄り添うことはできても、命に介入することはできない」

非常に考えさせられた一文。
だからこそ、私の手中にあるこの命というバトンを繋ぐことができるのは私だけだ。

価値観とか、好きとか嫌いとか、そういうところは共有した方が良い場合が多いけれど、その人自身の「命」に関しては、本人にしか何の権利も義務もないのだと。人生は長短で価値がつけられるものではなく、濃淡は外側から測ることができない。その人がどう生き、どう生を終わらせるかは本人にしか決められない。決めてはいけない。

すべての出逢いに意味があるというか、意味があるとかないとかそういう概念さえないような、だって人に限らずすべての出逢いによってこの私はできているから。

「人間はたとえどんな境遇に置かれていたとしても、一日一日を精一杯生きることしかできないのだ、といまの私は考えています。」

救われた一文。
どんなに辛いことがあっても、嬉しいことがあっても、時間の流れというのは変わらず、一定のスピードで地球は回るから、毎日、というものがある。同じサイクルで太陽が昇り、沈むことを繰り返す。生には休憩も休止も、早送りももちろん巻き戻しもない。そんな大前提の上で私たちができること。結局のところ、一日を過ごすことには変わりないのだ。寝転んで息をするのが精一杯なときもあれば、早朝から勉強して運動して料理をして家事をするのが精一杯なときもあれば、仕事に行って最低限の業務をこなすのが精一杯のときもあれば、精一杯はその時々で変わる。
精一杯って人それぞれだけじゃなくて、その時々で変わる。精一杯生きている、とわかりながらではなくても誰しもが精一杯生きているんだと思う。
何か辛いことが起きたとき、自分の無力さを知ることってある意味大事なんじゃないかと思う。無力であることは必ずしも悪いことではなくて、どうせ無力なら自分なりの今の精一杯で、今日という一日を過ごせば良いのだ。それが精一杯だから。

核心を突いた言葉がたくさん心に刺さって、沁み渡っていった。亜紀という女性の人生を見つめていたようで、自分自身の人生を見つめていた気がした。渡されたこの命のバトン、自分なりの色や形にしていこう。

ぴろ

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