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小説:殺されないもの

 二十三年間私は色々な人間を殺してきた。それは楽しいからではなく、生活の糧を得なければならなかったからだが、果たして二十三年間も続けていて、そんなことが言えるだろうかとも思う。
 人を殺すことを始めたのは十八歳の時だ。その頃から殺人と引き換えに対価を得ていたが、それが自分の仕事だと思ったのは、たぶんずっと後のことだ。今の私は、自分が死ぬまで人を死なせ続けるだろうと確信しているが、そんな表現をするならば、私以外の全員だって同じことだと言える。
 私は今、四十一歳だが、六十歳になろうと百歳になろうと人を殺し続けるだろう。年齢や、はたまた私が女であることといったことは、殺人を完遂するにあたってそれほど関係がない。人を殺すのに必要なのは、人を殺せる能力であって、腕力ではないからだ。むしろ年齢を重ねていくごとに、体力に振り回される仕草が減って、殺しやすくなったとすら言える。効率的に仕事をこなす技能を、経験によって学んだということだ。まあどれにせよ、自ずとそうならざるを得ない。どんな人間でも。
 安い映画のようで苦笑したくなるが、若い頃は、それこそ色仕掛け等の手段を使って仕事をすることもあった。が、歳を取るごとにそういった方法には頼れなくなっていった。結果的に、そのおかげで純粋に相手の息の根を止めるための技術を磨くことができたわけで、そういう意味では歳を取って良かったこともあった。本当に問題なのは、私がそうやって技術を磨いてしまったことだ。
 引き返すことのできなくなった人間というのを、私は無数に見てきた。殺す前に標的について知れば知るほど、殺されるしかなかった人生だと思えてくる。恐らく最初から決まっていた。生まれた時からか、若しくはその前からかわからないが、とにかく彼らは殺されるべくして殺される。私はそういった人間たちを終着点で待って、必然を起こすための存在だ。私の終着点には誰が待っているのだろう? 誰か待っていてくれるのだろうか?
 どんな仕事にも失敗は付き物で、私も予定通りに行かず、途轍もなく厄介な事態になってしまったことは、一度や二度だけではない。だが、それが失敗だったとして、他は成功だったのか。
 十五歳の少女を殺したことがある。生まれつき体に障害のある男を殺したことがある。同性愛者を殺したことがある。貧しい外国人を殺したこともあるし、妻子のいるサラリーマンが自殺しようとしているところを殺したこともある。
 私には親がいた。友人がいた。恋人がいた。夫と子がいた時もある。だが、私は人を殺し続けた。
 私と同じように、この仕事を続けている別の人間たちもいる。あまり深い話をしたことはないが、彼らは口を揃えて、すぐに慣れたと言う。最初だけだった、と。私も同じように思う。そして、思わない部分もある。
 昔、私の腕の中で死んでいった標的がいた。色々と悪い事態が重なり、予定通りに行かなかった仕事だった。後処理も十分に行えなかった。標的の遺体に私の涙が付着していて、そこから足が着き、そのせいで地獄のような苦痛を味わった。私はその時の記憶を、終着点に行き着くまで思い返し続けたいと思う。



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