小説:部屋の魚たち

 僕たちの部屋にたくさんの魚が泳いでいた。泳いでいる魚の種類はよくわからない。僕は魚に詳しくない。取りあえず、大きさは小さいものから中くらいのものが混在しているが、それほど奇抜な姿かたちをしたやつはいないようだ。所謂熱帯魚のような、見るからに目を引くような、明るいルックスの魚は、この部屋にはいない。何種類もいるが、どの魚も、水槽で飼ってみたいと強く思わせるものではない。
 明確に夢だった。だって魚は空中を泳いでいる。部屋が水で満たされているわけではない。空気の中を泳ぐ魚。そんなものを、僕たちの世界では魚とは呼ばない。けれど、その時の僕は、夢だと気付くことはなかった。その奇妙な光景を現実のものとして認識していた。
 僕は亜由美の姿を探し始める。リビングの端に立ったまま視線を彷徨わせ、小柄なその体を見付けようとする。この部屋に住むもう一人の住人。だけど見付からない。魚が時々僕の体にぶつかりそうになり、方向を変えて泳いでいく。
「亜由美」
 僕は名前を声に出して呼んでみる。返事はない。もう一度名前を呼ぶ。魚が僕の体にぶつかる。ぶつかった魚は別の方に向かって泳いでいく。
 一歩足を踏み出してみる。ぶつかってくる魚を半ば押し退けるようにして、僕は歩を進めていく。ソファを避け、テーブルを横切り、ラックの上の時計に目をやる。何時なのかよくわからない。うまく認識することができない。掃き出し窓から入る光で部屋は暗くないし、たぶん昼間だろうと予想する。
 僕は他の部屋へ移動する。どの部屋にも魚は泳いでいる。音も立てずに、静かに泳ぎ続けている。どうして魚はこんなに静かなのだろう? どれだけ大勢いても、全くうるさくないというのは不思議だ。僕は亜由美の姿を探してキッチンやトイレやバスルームを回る。クローゼットの中も開けて確認する。中から魚が数匹飛び出してくる。
 全ての部屋を見たが、どこにも亜由美はいなかった。
 僕はリビングに戻り、掃き出し窓の外を見る。いつも通りの住宅街が見える。外に魚は泳いでいない。この部屋だけに、魚たちが泳いでいるのだろうか。
 僕は窓の鍵に手をかけ、一瞬だけ躊躇する。窓を開ければ、魚たちは外へ泳ぎ出て行ってしまうかもしれない。それは起こって良いことなのだろうか? 僕はどういうわけか、魚たちをこの部屋にとどめておくべきではないかと考えている。目の前の、ガラスと僕の目の間の空間を、地味な色の魚が横切る。僕は鍵から手を放す。カーテンを引っ張って窓を塞ぐ。暗くなった部屋で魚たちが泳ぎ続ける。亜由美の姿はない。


 見た夢の話を、僕はよく亜由美に話している。僕の見た夢の話を聞くことを、亜由美は嫌がらない。現実に起こった話と同じように聞いてくれる。だから、魚たちの夢の話も僕は亜由美にする。
 時刻は夢を見た日の晩で、僕たちは照明を消した部屋で、テレビに映る映画を観ている。隣り合ってソファに座り、亜由美の体は僕にもたれかかっている。ローテーブルの上には、空いたチューハイの缶が二本と、皿に盛られたスナック菓子が並んでいる。俳優たちの声と音楽が、静かな部屋で少しだけ響いている。
「結局わたしのことは見付けられなかったの?」と、亜由美が画面に視線を向けたまま訊いてきて、僕は「そうだね。部屋の中にはいなかった」と、画面に視線を向けたまま答える。
「どうしてわたしのことを一生懸命探したの?」
 亜由美に訊かれて、僕は「うーん」と言って考える。
「魚がたくさん部屋の中を泳いでいたのが、怖かったのかもしれない」
「え、怖かったんだ。聞いてる限りだと、怖い夢には思えなかったけど」
 僕は「客観的にはそう思えるかもしれないけど、」と言ってから頭をかく。
「その時の僕は夢だと気付いていなかったし、突拍子もないことは大抵怖いもんだよ」
 亜由美はくすりと微笑してから、「葵は怖がりなんだね」と言う。
「それで心細くてわたしのことを探したんだ」
 亜由美が首を捻り、僕の顔を見る。僕は視線から逃れるように顔を背ける。亜由美の目は僕には大きすぎる。
「でも見付からなかった。この部屋にはいなかったよ」
 僕は亜由美に押さえられていない方の、自由な腕を動かして『この部屋』を表して見せる。
「外に出ればよかったのに。部屋を出てわたしを探しに行かなかったのはなぜ?」
 亜由美はスナック菓子に手を伸ばし、口に放り込んだ。噛み砕かれていく音をしばらく聞き、僕は答える。
「扉を開けたら魚たちが外に出て行ってしまうだろ? それが嫌だったんだ」
 亜由美は「ふうん」と言い、もう一度スナック菓子を手に取って口に入れた。ぼりぼりと音を立てながら、亜由美は「何かよくわかんないね」と、言った。
 僕は亜由美の顔を見る。亜由美は画面に視線を戻している。
「でも、その時の僕はそう思ったんだ」
「うん」
 相槌を打った亜由美は、スナック菓子を咀嚼し続ける。僕は黙ったまま、その表情を確認したり、テレビ画面に目をやったりする。やがて、ごくりと飲み込んだ亜由美が口を開く。
「もしまた同じ夢を見たらさ、次はわたしを探しに行ってよ」
 亜由美が僕の胴体にぐるりと腕を回す。
「必ず、扉を開けて外に出てよ。魚は外に飛び出しちゃうかもしれないけど、すぐに扉を閉めれば大丈夫だよ。で、わたしのこと探して。街中探して。わたしも必ずどこかにいるから」
 亜由美の声は優しく、僕を落ち着かせる。
「見付けたら部屋に連れて帰って。わたしにも泳いでる魚を見せて。それから、一緒にその魚を捕まえようよ」
「捕まえる?」
 聞き返す僕に、亜由美は「うん。去年の夏に買った虫取り網があったでしょ? あれで捕まえるの」と、楽しそうな声で言う。
「捕まえたら、その魚をみんな食べちゃおうよ。刺し身にしたり、焼いたり煮たりしてさ」
 僕は思わず吹き出して笑ってしまう。
「全部食べるのか。かなりの数がいたから、捕まえるだけでも苦労しそうだ。それに、食べられる魚なのかもよくわからなかったよ」
「魚って食べられない種類とかいるの?」
 亜由美に訊かれ、僕は口をぱかりと開けて一瞬固まる。
「いる……んじゃないか? そりゃあ」
「気にしなくていいよ。どうせ夢の話なんだし」
 それはそうだ。気にする必要はない。夢の話は夢の話であって、現実ではない。
 だけど、僕はもう一度魚たちの夢が見れるのはいつだろうかと考えている。そういう風に考えられたことが、何だか一つ得したことのような気分だった。
 僕は亜由美の体を抱き寄せ、「サンキュー」と呟く。


<了>

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