小説:浮いたわたし

 午前中の、まだ客もそれほど多くないチェーン店のカフェで、二人掛けの席に春行と向かい合って座っていると、わたしの体が数センチ椅子から宙に浮かび上がる。ふわり。
「え。わ?」
 わたしが声を上げた時には、体は再びすとん、と椅子に着席している。ほんの一瞬の出来事。
「……え?」
 口を開けた春行は、わたしの顔を見つめたまま静止している。右手に持ったコーヒーカップも、口元まで運ばれることなく、ソーサ―から少し離脱したところでぴたりと止まっている。
「今の何……?」
 わたしは自分の体を見下ろしながら呟く。椅子とお尻を触って確認してみるけど、二者はしっかり密着している。けれどさっき、それらは確かに離れている感覚があった。靴の裏だって床に着いていなかった。体全体が、優しく持ち上がっていた。
「何って……俺に聞かれてもわかんないけど……」
 春行がわたしに視線を固定したまま、カップをソーサーに戻して言う。
 わたしはキョロキョロと周りを見る。わたしたちから少し離れた席に座っているお客さんたち。一人席に座っている若い男の子、二人組の女の子たち、四人組の白人男性のグループ……広い店内に、他にも何組かお客さんはいるけど、誰もこちらを見ていない。みんな各々タブレットの画面や、お喋りに夢中になってて、さっきわたしの身に起こった出来事に気付いている様子はない。なら店員さんは? と思って注文カウンターの方を確認するけど、同様にわたしたちに視線を向けている人はいなかった。
「……今、浮かんでたよね?」
 春行が体を傾けて、横からわたしの席を見ながら言う。
「浮かんでた……何? 何なの……?」
 わたしは自分の体を抱える。人間の体が急に宙に浮かぶことなんてあり得ない。そんなこと起こるはずがない。
 何か異常がある……? と思って、わたしは自分の体をあちこち触って確認するけど、何もない。いつの間にか紐とかロープとかがくくり付けられてて、引っ張り上げられた……なんてことあるわけがない。わたしはこの店内に入ってから、注文して、着席して、春行とずっとだらだら喋っていただけだ。そんなことをされた覚えはない。
「マジシャン……?」
「え、何が?」
 わたしがぽつりと漏らした一言に、春行が眉をひそめる。
「いや、何でもない……。この店内にマジシャンがいて、いつの間にかちょっとしたイリュージョンに巻き込まれてたとか……何かそんなこと考えたけど、ないよね」
「うーん……それはないと思うけど……」
 春行は腕を組んで首を傾げる。
 そうしてお互い三、四秒黙ってから、わたしが言ってみる。
「何か、そういう科学現象みたいなのある?」
「科学現象?」
「科学で……説明がつくような……現象……偶然起こるような……」
 わたしの声がだんだん小さくなって、春行は軽く吹き出す。
「あるのかな……わかんないな……」
 春行が少し引きつった笑顔で、もう一度首を傾げる。
「ねえ、何か気味悪いからこの店出てもいい……?」
 言い終わると、わたしは春行の返事がある前に立ち上がっている。
「え、ああ。いいよ」
 バッグを持って準備するわたしを見て、春行も慌てて立ち上がる。
 わたしたちは返却口に食器類を戻し、黙って店の出入り口へ向かう。カウンターの前を通る時、中にいる店員さんたちが言う。
「ありがとうございましたー」
「浮いてました?」
 わたしも春行も立ち止まる。若い女の人の声。カウンターの中を見る。
 わたしの顔をまっすぐ見ている、女の店員さんがいた。黒い髪を束ねて、白いシャツにエプロンを着て、微笑みながら、わたしに視線を送っている。
「見てたんですか?」
 一瞬間が空いてから、わたしはカウンターに近付いて訊く。
「え……? 何ですか?」
 女の店員さんの顔が、途端に困惑した表情に変わる。
「いや……今さっき『浮いてました?』ってわたしに……」
「いえ……言ってませんけど……」
 女の店員さんが、隣に立つ別の男の店員さんの方を見ながら言う。いかにも客に変なことを言われて困ってますって感じの反応で、わたしは頭がぐわりと混乱する。
「言ってましたよね? ね?」
 わたしは斜め後ろに立っている春行の方を見る。それに対して
「うん……俺も聞こえた……」
 と、春行が言ってくれるのが本当にありがたい。「ほら……」と、言いながらわたしはもう一度女の店員さんに向き直る。
「いや……ちょっと何のことかわかり兼ねますけど……」
 首を傾げる女の店員さん。男の店員さんと顔を見合わせて、明らかにわたしたちと距離を取ろうとしている。
「でも、彼も聞いてて……『浮いてました?』って、そちらの……」
「あの、すみません。他のお客様がお待ちですので……」
 と、言って、男の店員さんが遮りながら手の平で示した先には、確かにカウンターに並んで注文をしようとしている女性のお客さんが、こちらを睨んでいた。わたしがカウンターににじり寄って邪魔していると言われれば、そうであるとしか言いようがない状況だ。
「あ、はい……すみません」
 わたしはお客さんに頭を下げ、カウンターから離れて道を開ける。二人の店員は、わたしたちから視線を外して接客を始める。もう二度とこちらに視線を送りたくないという雰囲気が伝わってくる。
「何でだよ……?」
 春行が力を込めながら呟く。わたしも同じ気持ちだ。
 わたしたちが、二人して聞き違えをしたということはあり得るだろうか? 人の体が宙に浮いたのを目の当たりにした直後で、そのことで二人とも認識がその方向に向いていたから関係ない言葉でも……とか考えるけど、納得はいかない。
 沈黙したまま、わたしたちは店を出る。
 外に出ると、店に入った時よりも太陽が強い日差しを浴びせていて、少しくらりとする。全てが明るく照らされ、街中を行き交う人々は、誰も彼もが幸せそうに話している。
 その中を、わたしと春行は無言で歩く。どこへ向かっているのかもよくわからない。
 大勢の人々の話し声がいくつも飛び交う。その中で、確かにわたしの方に向かって声が聞こえる。
「浮いたんですか?」
 わたしは人ごみの中で振り返る。春行も立ち止まり、わたしと顔を見合わせて、頷く。
 けれど、声の主は、もうどこを歩いているのかわからない。


<了>

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