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小説:できることならできることを

 のそのそ、とかガバリ、というよりは体に結び付けた一本か二本の糸に引っ張り上げられるようにして僕は布団から抜け出して立ち上がる。ふらりと倒れ込むように作業机に向かい、先週会った五才と三才の息子たちみたいにうるさい目覚まし時計の頭を叩いて静かにさせると、午前十一時だ。
 音が止んで静かになると、すぐにもう一度布団の中へ倒れ込みたい衝動が湧いてくる。僕は何とか踏んばりながら、この目覚まし時計は息子たちのようにうるさいが、僕は息子たちの頭を叩いて静かにさせたことはなかったなと考えている。僕はそれが良いことだと思っていたが、妻は……今は元妻だが、彼女は必ずしもそう思ってはいなかったのだ。僕は息子たちを静かにさせるよりも、その逆をやる方が得意だった。彼女からすれば、そんな僕の振る舞いは間違いだったに違いない。頭は叩かずとも、静かにさせることは必要だったのだ。目覚まし時計を止めずに放っておくのが間違いであるのと同じように。
 大きく伸びをして、攣りそうになった腰を押さえながら廊下を歩く。トイレに入って用を足してから台所の冷蔵庫を開け、水出しした麦茶をコップに注いで三口飲む。冷蔵庫からスーパーで買った総菜の残りを出してきて、レンジで温めている間に麦茶を飲み干し、もう一杯注いでから温め終わった総菜と共に作業机に運んで食べていると、インターホンが鳴る。玄関のドアが開く音と、人が廊下を歩く音がした後、鳥澤くんが現れ、予想外の事態に僕は眉をひそめる。
「井ノ川さん……何やってるんですか」
 挨拶より先に腰に両手を当てて溜め息混じりにそう言う鳥澤くんに、僕は少しムッとした気分になる。
「朝飯を食ってるんだよ。それが何だよ」
 鳥澤くんは僕より若くて背も高くて会社でも出世している人間で、それだけで僕みたいなちんけな男は嫉妬してしまうものだが、その上で見下した態度を取られると、なかなかたまったものではない。だいたい鳥澤くんは、僕の前に現れる時はいつも今みたいに細身のスーツをビシッと着ているが、そういうのも僕みたいな社会性の乏しい人間には抑圧になるから気遣って欲しいものだ。
「食わなくていいからさっさと着替えて出てきて下さい。前に車止めてますから」
 鳥澤くんは地の底を覗き込むかのように項垂れながら、左手に立てた親指で玄関の方を二回指す。
「いや……迎えに来るのは十二時ちょうどのはずだろ? 早すぎるよ」
 言い張りながら、僕は念の為時計にちらりと目をやって、時刻がまだ十一時三十分であることを確認する。
「ご飯くらいゆっくり食べさせてくれよ。腹が減っていてはこの後の仕事にも影響するだろ」
 すると鳥澤くんは、今度は逆に頭を天に向けて仰ぎながら「十二時は依頼者との面会が開始する時間です。面会場所まで移動するのに十二時から出発したって間に合うわけないですよね?」と、言ってから僕を睨む。鳥澤くんの眉間に寄った皺の数を数える余裕もなく、反射的に僕は頭ごと目を逸らして「ああ~、そうかそうか……」と、どうやっても震える声で返す。「勘違いしてたよ。ごめんね」
 僕はこれ以上鳥澤くんに怒られて脂汗をかきたくもなかったので、言いながらさっさと立ち上がり、手の甲で口元のソースを拭いながら衣装ケースにそそくさと向かう。
「ちょっと待っててくれ。すぐ支度するから、うん」
「そうして下さい。何度もスマホに連絡したのに返事をしなかった理由については車の中で聞きますんで」
 それはたぶん、バッテリーが切れた後で僕がそのことを忘れたまま放置していたからだが、今はまだ言わなくていいようだ。鳥澤くんは威圧的な溜め息をつきながら早足で僕の部屋を出て行った。車中で僕を待っていてくれるんだろう。たぶん、貧乏揺すりとかしながら。
 僕はすぐさま襟付きのシャツとジーパンを身に着け、優良な企業が求人票に書いている年間休日と同じ日数くらい着ているジャンパーを羽織ってから、リュックに荷物を積める。財布と、スケジュール帳と、仕事道具の入ったポーチと……あと今回使う資料は……ああ、何か他の書類と一緒になってわからない。取りあえず全部持って行こう……。
 僕は大雑把に紙の束を掴んで大雑把にリュックに放り込む。持ち上げて背負うと無駄が多く、重かった。前に鳥澤くんにもっとペーパーレス化しろと言われたことがあるが、役所関係とやり取りする時は紙の方が便利なのだ。文句は警察や税務署に言ってもらいたい。
 鍵掛けから鍵束を取って玄関に向かい、汚れた革靴に足を突っ込む。シューズボックスの上で写真の中の僕たちが笑っている。かつて僕と家族だった人たちと、僕。この前元妻がうちに来た時にこれを見かけて不快感を示していたが、負けじと僕は飾り続けている。
「いってきます」
 靴を履いた僕は手を上げて写真に挨拶し、扉を開く。
 そういえば食べかけの総菜を冷蔵庫に戻すのを忘れていた、と気付いたのは扉に鍵を掛けてからだったが、寝癖も直さず歯も磨かず顔すら洗っていないのに、今更その程度の失敗をしようとしまいと何の違いがあろうかと諦めて車へ向かった。
 さあ、仕事だ。こんな僕にでも目的地はある。



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